第六話:空白の証明

「僕」という存在は、いつから彼女という鏡に映る反射(レフレクション)でしかなくなったのだろう。


 その朝、枕元のスマートフォンに届いたのは、いつもの「最適化された朝の挨拶」ではなく、短く簡潔なテキストだった。


『ごめんなさい。少し熱が出てしまったみたい。今日は、学校を休みます。蓮くん、一人の一日を、どうか無事に過ごしてね』


 たった一通のメッセージ。それだけで、僕の世界の解像度は一気に落ちた。  

 ベッドから這い出そうとして、僕は愕然とする。今日、僕はどのシャツを着ればいいのか。クローゼットには詩織が選んだ服が整然と並んでいるが、彼女の「指定」がないと、それらは単なる布の塊にしか見えなかった。


 朝食も、喉を通らない。  

 冷蔵庫の中には彼女が準備した食材がある。だが、どの順番で、どの温度で調理すれば「僕の細胞が喜ぶ」のか、僕にはさっぱり分からなかった。


「……一人で、行かなきゃいけないのか」


 家を出る。いつもなら、彼女が露払いをしたようにスムーズに流れる景色。  

 だが、今日は違った。横断歩道では信号待ちに捕まり、歩道では向こうから歩いてくる集団を避けるために右往左往する。  


 世界にはこれほどまでに「摩擦」が満ちていたのか。    


 学校に着く頃には、僕はひどく疲弊していた。  


 教室に入り、自分の席に座る。机の上には何もない。当たり前だ。教科書を出そうとして、僕は手が止まった。一限目は、何だっただろうか。  

 時間割を確認すれば済む話だ。だが、僕はその「確認する」という単純な演算(ロジック)さえ、詩織にアウトソーシングし続けていた。


「如月、お前、今日なんか……ぼーっとしてないか?」


 声をかけてきたのは、名前も思い出せないクラスメイトだった。  

 返事をしようとして、僕は言葉が詰まる。こういう時、僕はどんな顔で、どんなトーンで話していただろうか。  

 僕の社交性も、僕の愛想も、すべては詩織が「蓮くんはこうあるべきよ」と微調整してくれていたテンプレートだったのだ。


 昼休み。僕は逃げるようにコンビニへ向かった。  

 何か、飲み物を買おうと思った。    


 目の前に並ぶ、数十種類の飲料。  


 僕は立ち尽くした。  


 緑茶、紅茶、炭酸、コーヒー。


 僕は一体、何が「好き」だっただろうか。

 昨日まで、詩織が僕の喉の渇きを先回りして、最高の一杯を差し出してくれていた。  僕の「好み」というデータは、すべて彼女の脳内に蓄積され、僕自身の脳からは既に削除(パージ)されていたのだ。

 棚に並ぶペットボトルのラベルが、冷徹な記号の羅列に見える。  


 選べない。  


 たかが百数十円の飲み物一つ、僕は自分の意志で決定することができない。

 背中を冷たい汗が伝う。  


 僕は、僕だ。ここに立っているのは如月蓮だ。  


 だが、中身がない。  


 詩織という精緻なプログラムが実行されない限り、僕はただの、何もしない肉体の檻でしかない。


「……蓮くん。本当に、ダメな子ね」


 不意に、背後で幻聴が聞こえた気がした。  

 それは彼女の、とろけるように甘く、そして僕を「無能」であると定義し、愛でる声。


 僕は気づいてしまった。

 

 詩織は僕を支配していたのではない。  

 彼女は自分の自由をすべて投げ打って、僕の「人生そのもの」を引き受けていたのだ。  


 彼女が僕のために時間を費やし、計画を練り、世界を掃除するたび、彼女自身の自由もまた、僕という存在に縛り付けられていく。

   

 僕を「無能」にするために、彼女は「万能」であることを自分に強いている。

   

 共依存という言葉では足りない。  

 これは、二つの個体が一つに溶け合うための、あまりに過酷な「儀式」だった。

   

 僕は震える手で、結局何も買わずに店を出た。  


 早く、あの部屋に帰りたい。  


 熱にうなされているはずの彼女の元へ行き、僕という空っぽの容器を、再び彼女の献身で満たしてほしい。    


 雨が降り始めていた。  


 傘の差し方さえ、僕はもう、正解を思い出せなくなっていた。

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