第五話:快適な窒息
深い霧の中に沈んでいるような、そんな心地よさだった。
水崎さんが去り、僕を煩わせていた雑多な人間関係が整理されると、僕の日常は驚くほど滑らかになった。何一つとして、僕の意に沿わぬことが起きない。
それを「異常」だと警告する脳の部位は、日々、詩織が注ぎ込む甘い麻酔によって麻痺させられていた。
「蓮くん、お疲れ様。テスト勉強、少し頑張りすぎちゃったかな」
僕の部屋のソファで、詩織が僕の頭を自分の膝へと導いた。
膝枕。あまりに古典的なその行為も、彼女が施せば、脳を直接とろけさせるような精密な癒やしへと変わる。彼女の指先が、僕のこめかみを絶妙な圧で指圧する。
「……詩織、悪いよ。君だって、自分の勉強があるだろう」
「いいの。私はもう、今学期の範囲はすべて理解し終えているわ。それに、貴方の疲労を回復させることは、私にとっての最優先事項(プライオリティ)なのよ」
彼女は慈しむような手つきで、僕の髪を梳く。
彼女の体温が、首筋から僕の全身へと伝播していく。部屋の照明は彼女の手元のリモコンで、僕の眼精疲労に最も優しい照度へと落とされていた。
「ねえ、蓮くん。今日はもう、何も考えなくていいわ。明日の朝、何を着るか。何を食べるか。どんな順番で教室へ向かうか。……すべて私が決めて、貴方を導いてあげる」
彼女の囁きは、まるで波の音のように規則正しく、僕の意識を深い安眠へと誘う。
実際、最近の僕は、自分が「選ぶ」という行為を放棄し始めていた。
学食で何を選ぶか迷う必要はない。僕がその日、栄養学的に、そして味覚的に求めているものが、彼女の手によって目の前に供されるからだ。教科書をめくる必要さえない。彼女が「ここが重要よ」と指し示す場所を眺めるだけで、成績はトップクラスを維持できていた。
「自由っていうのは、とても疲れるものなのよ」
詩織は、僕の耳元に唇を寄せた。
「人は一日に、何万回も選択を繰り返すわ。それは魂を少しずつ削り取る、終わりのない作業。……でも、私の隣にいれば、貴方はその苦役から解放される。純粋な『快』だけを享受して、ただ存在していればいいの」
彼女の指が、僕の瞼を優しく撫でる。
その指先の冷たさが、逆上せあがった僕の脳を心地よく鎮めていく。
僕は、彼女の膝の上で、自分が「人間」であることをやめ、彼女に飼育される「現象」に成り下がっていくのを感じていた。
それは、恐ろしいほどに甘美だった。
自分で考え、決断し、責任を取る。そんな重荷をすべて詩織が背負い、僕はただ、彼女が用意した「最適解」という温水プールの中で浮かんでいればいい。
「……詩織。僕は、君がいないと、もう……」
「ええ、分かっているわ。貴方の筋肉は、私なしでは歩き方を忘れてしまう。貴方の心臓は、私なしでは鼓動の意味を見失う。……それでいいのよ、蓮くん」
詩織は僕の頬を両手で包み込み、ゆっくりと顔を近づけた。
月光に照らされた彼女の肌は、陶器のように滑らかで、その瞳には僕だけが映っている。
彼女の美しさが、圧倒的な引力となって僕を吸い込んでいく。
「世界は残酷で、不確定なノイズに満ちているわ。でも、この部屋だけは違う。ここは、私が貴方のために作り上げた、真空の揺りかご。……ずっとここにいましょう。私という完璧な酸素だけを吸って、生きていきましょう?」
彼女の唇が、僕の額に触れた。
その瞬間、僕の中に残っていた最後の一滴の自律性が、蒸発して消えた。
僕は、彼女の手を握り返す。その力が、僕の意志で動いたのか、それとも彼女の誘導によるものなのか、もう判別がつかなかった。
快適な、窒息。
僕は彼女の腕の中で、幸せに、静かに、壊れていく。
外の世界では、雨が降り始めたようだったが、詩織が閉ざした遮音カーテンの向こう側にある「現実」は、今の僕にとって、もう何の意味も持たなかった。
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