第四話:他者の排除

「他者」とは、本質的にノイズである。  


 どれほど親しい仲であっても、自分以外の人間は予測不能な変数だ。彼らは突然泣き、怒り、そしてこちらの予定を狂わせる。  

 だから、僕の人生を「完璧」に保とうとする詩織にとって、僕に近づく「他者」は、真っ先に処理すべきエラーメッセージに過ぎなかった。


「蓮くん、今日のお昼、もしよかったら一緒に……」


 休み時間、隣のクラスの女子生徒、水崎さんが僕の席にやってきた。彼女は中学時代からの知り合いで、明るく、少しお節介なところがある。詩織が作る「無菌室」のような日常の中で、彼女の放つ生活感は、僕にとって唯一の「外の世界」との接点だった。


「あ、水崎か。悪い、今日は――」


「――今日は、私と一緒に図書室で資料を整理する予定なの。ごめんなさいね、水崎さん」


 いつの間にか僕の背後に立っていた詩織が、鈴を転がすような声で、けれど一切の隙を与えずに言葉を被せた。  

 水崎さんの顔が、一瞬で硬直する。学園の女王である詩織を前にして、気後れしない生徒はいない。


「あ、一ノ瀬さん……。そっか、邪魔しちゃってごめんね」


「いいえ。貴方に悪意がないことは理解しているわ。ただ、蓮くんの現在のスケジュールにおいて、貴方との会話は優先順位が極めて低いの。理解してもらえるかしら?」


 詩織は微笑んでいる。その微笑みは絵画のように完璧だが、瞳の奥は一ミリも笑っていない。  

 水崎さんは気圧されたように後退りし、逃げるように教室を去っていった。


「……詩織。あんな言い方をしなくてもいいだろう。彼女はただの友達だ」


「友達。……その定義は曖昧だわ、蓮くん」


 詩織は僕の隣に座り、僕の手を机の下で優しく握った。彼女の指先は驚くほど冷たく、けれど僕を離さないという強い意志が伝わってくる。


「彼女は貴方に好意を抱いている。それは貴方の平穏にとって、非常に大きな『負の資産』よ。彼女と関われば、貴方は彼女の感情をケアするために時間と精神を浪費することになる。……そんな無駄、私が許さない」


 その日の放課後。僕は見てしまった。  


 校舎の裏で、詩織が水崎さんと二人きりで話しているところを。


 詩織は、声を荒らげることも、相手を罵倒することもしなかった。  

 ただ、手元のタブレットに表示された何らかのデータを示しながら、淡々と、そして優雅に「宣告」していた。


「水崎さん。貴方の家が経営している工務店、今月、私の実家のグループ企業からの発注が全体の四割を占めているのを知っているかしら?」


「えっ……? それ、どういう……」


「何も脅しているわけではないわ。ただ、私が父に『蓮くんの学習環境を整えるために、少しだけ周囲の環境を調整したい』と相談すれば、その数字がどう変わるか。貴方の知性なら、想像できるわよね?」


 水崎さんは震えていた。暴力よりも深く、逃げ場のない「現実」を突きつけられている。


「蓮くんは、選ばれた存在なの。私という完璧なフィルタを通して、純粋な幸福だけを享受すべき人。……貴方の不純な好意は、彼にとっての汚染でしかない。もし本当に彼を想うなら、自分が彼にふさわしくない『ノイズ』であることを自覚して、静かに消えてくれないかしら?」


 詩織の言葉は、まるで祈りのように清らかだった。  

 相手を不幸に陥れようとしているのではなく、ただ「世界をあるべき姿に整える」という使命感に満ちていた。  


 水崎さんは、涙を流すことさえ忘れ、幽霊のようにふらふらと去っていった。


 翌日、水崎さんは学校に来なかった。  

 それどころか、一週間後には親の仕事の都合ということで、彼女は遠くの街へ転校していった。


「残念ね。彼女、急に引っ越しが決まったそうよ」


 詩織は僕の隣で、淹れたての紅茶を楽しみながら、穏やかに言った。  

 彼女の横顔は、朝陽を浴びて透き通るように美しい。  

 僕の周囲から、また一つ「ノイズ」が消え、世界はさらに静かで快適になった。


「ねえ、蓮くん。これでまた、貴方を邪魔するものはなくなったわ。……幸せでしょう?」


 彼女は僕の肩に頭を預け、幸せそうに目を閉じる。  

 僕を愛している。僕を大切にしている。その一点において、彼女に嘘はない。  

 けれど、その愛の形が、僕の周りの世界を一つずつ、音もなく削り取っていく。


 僕は彼女の柔らかい髪の香りを嗅ぎながら、寒気に似た震えを感じていた。  

 僕の人生は、美しく舗装されていく。  

 誰とも関わらず、誰とも争わず、ただ詩織が差し出す「正解」だけを食べる。    自由という名の荒野を奪われ、僕は彼女が作り出した、世界で一番贅沢な「檻」の中で、ゆっくりと窒息し始めていた。

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