第三話:意味の剥離
「意志」という言葉は、案外、安っぽくできている。
何かを選び、何かを捨てる。そのプロセスに意味があるのだと人は言うけれど、もし「最善の結果」が最初から用意されていたらどうだろう。あえて回り道をして、泥を跳ね上げ、傷つくことに、一体どれほどの価値があるというのか。
放課後、夕陽が長く伸びる図書室。
窓際の席で、詩織は僕のノートに目を通していた。その細い指先が紙面をなぞるたび、夕光が彼女の長い睫毛に反射して、この世のものとは思えないほど幻想的な陰影を作っている。
「蓮くん、この問題。解答は合っているけれど、手順が少し遠回りね。三行目の数式を整理すれば、もっと美しく導き出せるわ」
「……ああ。そうだな。でも、たまには自分で悩んでみたかったんだ」
僕は窓の外を見つめながら、ぼんやりと呟いた。
詩織はペンを置き、透き通った瞳を僕に向ける。彼女の視線はいつも、僕の思考の深層まで見透かそうとしているようで、少しだけ呼吸が苦しくなる。
「悩むこと。それは、情報の不足から生じる一時的な混乱よ。蓮くんがそのために費やす十分間があれば、私は貴方に十個の『喜び』を教えられる」
「そうかもしれないけど……詩織。最近、僕は自分が空っぽになっていくような気がするんだ。朝起きてから眠るまで、君が用意したレールの上を滑っているだけで、僕自身の『意志』がどこにもないんだ」
それは、贅沢すぎる悩みなのかもしれない。
だが、摩擦のない氷の上を歩き続けるような、不気味な感覚が僕を支配していた。僕が僕であるための証明が、どこにも見当たらないのだ。
詩織は席を立ち、僕の隣へと歩み寄った。
彼女の纏う百合のような香りが、図書室の古い紙の匂いと混ざり合う。彼女は僕の頬に、冷たくて柔らかな手をそっと添えた。
「蓮くん。貴方は、宝石が自分自身で磨かれたいと願うと思うかしら?」
「……どういう意味だ?」
「磨くのは、職人の仕事よ。宝石はただ、その美しさを保ち、世界に愛されていればいい。貴方の『意志』という不確かなものに任せて、貴方の価値が損なわれるのを、私は許せないの」
彼女の言葉は、穏やかだが、鋼のような硬質さを秘めていた。
詩織は僕の目を覗き込む。その瞳の奥には、僕を愛おしむ情熱と、僕を完全に管理しようとする冷徹な理知が同居していた。
「貴方が迷う必要はないわ。貴方が何を望むべきか、何が貴方を最も輝かせるか。それは、貴方自身よりも私の方がよく知っている。貴方の人生という物語の編集権を、私に預けて」
「でも、それでは僕は、君の人形になってしまう」
「いいえ。貴方は、私の『世界』そのものになるのよ」
彼女は僕の額に、自分の額をぴたりと合わせた。
彼女の吐息が、僕の唇を掠める。その瞬間、僕の中にあったはずの微かな反抗心が、彼女の圧倒的な美しさと献身によって、音もなく溶けていく。
「蓮くん。自由なんて、ただの重荷よ。私がいれば、貴方は失敗することも、後悔することもない。……ねえ、こんなに楽で、美しい場所が他にあると思う?」
彼女の問いに、僕は答えることができなかった。
実際、詩織にすべてを委ねるようになってから、僕の生活は完璧になった。ストレスは消え、睡眠は深くなり、学業も私生活も「最高」を更新し続けている。
彼女の指先が、僕の髪を愛おしそうに梳く。
その仕草はあまりに優しく、献身に満ちていて、拒絶すること自体が罪であるかのように思えてくる。
「貴方はただ、そこにいて。私が差し出す幸福を、一つずつ受け取ってくれればいいの。……そうすれば、貴方は永遠に、私の『完璧な蓮くん』でいられるわ」
彼女の微笑みは、沈みゆく夕日よりも美しく、抗いようのない引力を持っていた。 僕は自分の意志を、彼女という名の巨大な演算装置に書き換えられていく恐怖を感じながらも、同時に、その深い安寧の中に沈んでいく自分を止めることができなかった。
意味の剥離。
僕が僕である理由が、僕の手を離れ、彼女の手の中に移譲されていく。
それは、魂を削り取られるような痛みを伴いながらも、麻薬のように甘美な、絶望的な救済だった。
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