第二話:先行する解決

 美しいものには、理由がある。  


 詩織が学園の廊下を歩くとき、その周囲には微かな静寂が広がる。それは彼女の容姿が端麗だからという理由だけではない。彼女が纏う空気が、あまりに整然としていて、不純物の一切を許さないからだ。


「蓮くん、今日のお弁当は少し趣向を変えてみたの。貴方が昨夜、寝言で『少しさっぱりしたものが食べたい』と言っていた気がしたから」


 昼休みの屋上。詩織はそう言って、宝石箱のような重箱を開けた。  

 中には、素材の良さを極限まで引き出した京風の献立が並んでいる。彼女の家柄を考えれば、料理など誰かに任せればいいはずなのに、彼女は必ず「自分の手」で僕の食事を作ることに固執していた。


「寝言まで聞いてるのか」


「ええ。貴方の呼吸が浅くなる瞬間も、深くなる瞬間も、私はすべて聞き逃したくないの」


 詩織は少しだけ頬を赤らめ、はにかむように微笑んだ。その表情は、どこまでも純粋な恋心を抱く少女そのもので、僕の胸を微かに締め付ける。


 だが、その微笑みの裏側で、彼女の「演算」は休むことなく稼働していた。


 午後、放課後のチャイムが鳴った直後のことだ。  

 クラスメイトの男子、佐々木が僕の席に歩み寄ろうとした。彼は学級委員で、文化祭の実行委員を誰に押し付けるか、ここ数日ずっと僕を標的にしていた。  

 だが、彼が僕に声をかける直前、詩織がすっとその間に割って入った。


「佐々木くん。例の案件、先ほど生徒会の方で受理しておいたわ」


「え……? 受理って、何が」


「文化祭の予算折衝(せっしょう)の件よ。貴方が抱えていた一番面倒な事務手続き、私がすべて代行して終わらせておいたわ。その代わり――」


 詩織は透き通った瞳で佐々木を見つめる。  

 その視線には、威嚇も怒りもない。ただ、「これが最も効率的な取引である」という、抗いようのない正論だけが宿っていた。


「蓮くんの放課後の時間を、一秒も奪わないで。彼はこれから、私と一緒に帰る予定になっているの。異論はないわね?」


 佐々木は、毒気に当てられたように数回瞬きをすると、「……ああ、助かるよ」と力なく笑って去っていった。  

 彼は気づいていない。詩織が彼の仕事を肩代わりしたのは親切心からではなく、僕に「面倒な役目」が回ってくる可能性を、根源から断ち切るためだったことに。


「……詩織。君がそこまでしなくていい。文化祭の委員くらい、僕が断れば済む話だ」


「いいえ。断るという行為にはエネルギーが必要だわ。断った後の気まずさや、人間関係の摩擦もノイズになる。そんな不快な計算、蓮くんの脳にさせるわけにはいかないの」


 詩織は僕のカバンを手に取り、優しく僕の手を引いた。  

 彼女の掌は柔らかく、そして温かい。


「蓮くんは、ただ私の隣で、移り変わる季節の匂いを感じていればいいの。困難も、葛藤も、決断も。そんな『汚れ仕事』は、すべて私が請け負うわ」


 校門を出る頃、僕はふと気づいた。  

 僕が苦手だった数学の追試が、なぜか「出題ミスのため全員合格」という不可解な処理で消滅していたこと。  

 昨日、僕に絡もうとしていた他校の不良グループが、なぜか一斉に「ボランティア活動に目覚めて」街から姿を消したという噂。    

 それらはすべて、偶然ではない。  

 詩織が、僕の人生という航路に現れるはずだった「嵐」を、僕が気づく前にすべて凪(なぎ)に変えてしまっていたのだ。


「ねえ、蓮くん。今日の夕飯は、貴方が一番リラックスできるメニューにするわね。……ふふ、驚いた顔も可愛いけれど、私は貴方の安心しきった寝顔が一番好きなのよ」


 彼女は僕の腕にしがみつき、幸せそうに目を細める。  

 その姿は、あまりにも献身的で、あまりにも美しい。  

 僕のために世界を造り替え、僕のために汚れを厭わず、僕のために人生を費やす少女。


 僕はその愛の重さに、快い眩暈を感じていた。  

 問題が起きない世界。傷つくことのない日常。  

 それは、彼女が作り出した「美しい無菌室」だ。    


 僕は、彼女という巨大な恩寵(おんちょう)なしでは、もはや一歩も歩けない体になりつつあることを、この時はまだ、幸福の一つとして数えていた。

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