学園一の美少女に「生活のすべて」を委ねたら、僕の存在理由が彼女の中にしかなくなった件について
@muniyu
第一話:幸福な無能
自由とは、重力のようなものだと思う。
なければ体が浮いてしまうし、ありすぎれば足が動かなくなる。人間が健康に生きていくためには、適度な不自由、つまり「思い通りにいかない現実」という抵抗が必要なのだ。
その抵抗が完全に消失したとき、人は自分がどこに立っているのかさえ分からなくなる。
「おはよう、蓮くん。カーテンを開けるわね。今日の紫外線指数は三・二、ちょうど心地いい朝よ」
枕元で、静謐な鈴の音のような声がした。
目を開けるよりも先に、適切な湿度の空気が肺を満たす。
一ノ瀬 詩織。
僕の幼馴染であり、学園で彼女の名を知らぬ者はいない。その彼女が、当然のように僕の寝室に立ち、窓際で美しいシルエットを描いている。
「……詩織。まだ七時前だぞ」
「ええ。貴方のレム睡眠の周期に合わせて声をかけたわ。今起きるのが、脳にとって最も負担が少ないはずよ」
彼女はベッドの脇に歩み寄り、僕の着替えを丁寧に並べた。
僕が今日、何となく着たいと思っていたシャツ。僕が今日、履こうと思っていた靴下。それらが一切の狂いなく、そこに「準備」されていた。
僕は彼女に、今日の気分を伝えた覚えはない。
「詩織、自分でやるよ」
「いいえ。蓮くんが服を選ぶ数秒間、その思考リソースを別のことに使ってほしいの。たとえば、今日見る夢の続きとか」
彼女は僕のネクタイを手に取り、慣れた手つきで僕の首元に回した。
指先がかすかに喉仏を掠める。
彼女の瞳には、一切の邪念がない。ただ、一点の曇りもない純粋な献身だけが、深淵のような深さでそこに宿っている。
リビングに降りれば、僕が最も好む温度のスープが湯気を立てていた。
パンに塗られたジャムの量さえ、僕が昨日「少し甘すぎるな」と無意識に一ミリだけ眉を寄せたことを汲み取ったかのように、完璧に調整されている。
「……美味しいな」
「よかった。蓮くんの味覚細胞が喜んでいるのが分かるわ」
詩織は僕の向かい側に座り、自分は何も食べずに、僕が咀嚼する様子をじっと見つめている。
彼女にとって、僕が食事を摂るという行為は、彼女自身の細胞を維持することと同義であるかのように見えた。
学校への道中も、不測の事態は一切起こらない。
いつもなら信号待ちで引っかかる交差点は、僕たちが近づく瞬間に青へと変わる。僕が足を止めそうになる段差は、いつの間にか滑らかなスロープに改修されている。
「詩織。最近、僕の周りでは不思議なことばかり起きる気がする」
「不思議? 何がかしら」
「嫌なことが、一つも起きないんだ。苦手な先生の授業は自習になるし、いつも絡んでくる先輩は急に転校してしまった」
詩織は立ち止まり、僕を振り返った。
彼女の長い黒髪が、朝風に揺れて、滑らかな軌跡を描く。
「それは、世界が貴方に最適化され始めているからよ。蓮くん」
「世界が僕に?」
「ええ。不快なもの、無駄なもの、貴方の平穏を乱すノイズ。それらを私が少しだけ、あらかじめ片付けておいただけ」
彼女は、まるで「散らかった部屋を掃除した」とでも言うような、軽い口調で告げた。
そこに他者への害意はない。ただ、僕という存在を純粋に保つために、外の世界の摩擦をすべて消し飛ばしただけなのだ。
学校に着くと、僕の机には既に一限目の教科書が開かれ、ノートの隅には僕が苦手な数式の要点が、彼女の美しい文字で書き込まれていた。
僕は、自分の椅子に座る。
座面は、僕の体温に合わせてあらかじめ暖められているようだった。
「蓮くんは、何も考えなくていいの。私が貴方の外部記憶装置(メモリ)になり、外部出力装置(ツール)になる。貴方はただ、美しく、穏やかに、そこに存在してくれればいい。……それだけで、私の世界は完成するんだから」
詩織は僕の肩に手を置き、耳元で囁いた。
それは、究極の「甘やかし」という名の処刑宣告に等しかった。
僕は、自分の意志でペンを握ることさえ、無駄なエネルギーの消費に思えてくる。 彼女が用意した正解をなぞるだけの日常。
摩擦のない、滑らかな滑走路をどこまでも滑っていくような、心地よい浮遊感。
僕は気づいていない。
自分が今、どれほど絶望的なまでに「幸福」であるかということに。
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