第2話 身を守る選択肢
朝の光の眩しさで目が覚めた。
オフィスの蛍光灯みたいに乾いていなかった。
窓の隙間から差し込む淡い金色が、石壁のざらつきを柔らかく撫でている。油灯の匂いが薄く残り、遠くで鳥の声がする。
太陽の光って、こんなにも気持ちよかったんだな。
俺はゆっくり起き上がった。
頭が、ずきん、と鳴る。
けれど昨夜の割れるような痛みじゃない。鈍い頭痛。重たいだけの頭痛だ。まだ熱は残っている気がするが、息は通る。喉のざらつきも、少しマシになっていた。
……生きてる。
その事実がありがたく感じることに、我ながら笑える。
布団を押しのけ、足を下ろす。床の冷たさが足裏に伝わる。これも覚えがある。ケイトの生活の冷たさだ。
部屋の隅に、小さな鏡が置かれていた。木枠で、ところどころ擦れた跡がある。
いつものように立ち上がって歩こうとすると、ふらついてうまく歩けない。
想像以上に体へのダメージが酷いようだ。
俺はふらつかないように壁に手を添え、鏡の前に立った。
……誰だよ。
そこにいたのは、慣れ親しんだ啓斗であった自分とは異なる別人だ。
髪は黒に近い焦げ茶で、寝起きのせいで少し跳ねている。目は思ったより鋭いのに、疲れが濃い。頬はこけて、顎の線が細い。肌は徹夜明けのように青白く、目の下には薄い影がある。
そして、額の生え際――髪に隠れかけた位置に、傷。
乾いた血の跡はもう洗われているが、赤黒い線が残っていて、触れなくても痛みが想像できた。
服は寝間着。布は質がいいのに、どこか擦り切れている。金はない。でも、誇りだけは捨てていない。そんな生活の匂いがする。
俺は鏡の中の自分を、少しだけ睨むように見た。
「お前は、ケイト・アルノード」
声に出すことで、名前が腹の奥に落ちる。昨日まではまだ自分が自分でないような感覚だったのに、今は俺がケイトだと実感がある。
同時に、啓斗の記憶も持ち合わせている。
深夜までパソコンと向き合い、プレゼン資料をまとめる日々。
ふたつの人生が、俺の中で同居している。
この状況を深く考えても仕方ない。まず、やるべきことを整理する。
合理的に考えて、どうすべきか。
俺は鏡の前で思考にふける。心の中にホワイトボードを立てた。勝手に線が引かれ、枠ができる。身体より先に、思考のほうが立ち上がる。コンサルの癖だ。
すべきは大きく3つ。
1つ。身を守ること。
誘拐未遂。刃物。計画性。
ここから導き出される結論は、「必ず次がある」こと。
今の俺は狙われている。身を守らなくては。
2つ。店の経営を何とかすること。
仕入れが止まり、現金の流れが歪んでいる商社に未来はない。頻繁に監査が入り、既存の取引先とは何をするにも本店への承認で縛られている。不当に締め付けられている。
最後に3つ目は、実権の奪還。
名目は俺が当主だが、叔父に店の実権を奪われた。両親の事故死から3年にわたって支店を絞り、今は命まで狙われている可能性がある。その事故死にも不審な点が多い。なんとしても店の実権を取り戻さなくては。これは俺の復讐に見えるが、そうじゃじゃない。こちらが生き残るための、正当防衛だ。
俺は小さく息を吐いた。
うん、見事なまでにやるべきことが生存するためのことに偏っているな。
全部、死なないためにどうするかだ。
3つとも重要。だが、緊急度が高い案件は何か?
答えは分かり切っている。
1つ目の身を守ることだ。
命がなければ、経営も、実権の奪還も、始まらない。
俺は鏡の中の自分に、ほんの少しだけ笑ってみせた。口角だけ。いつもの癖だ。
自信を持て、大丈夫だ。自分に暗示をかける。
よし。次の一手は決まった。
まずは、安全の確保。
この世界で、それをどう作るか。
俺は視線を部屋の隅に移した。ベッド脇の小さな台に、銀色の金具が埋め込まれた木の箱みたいなものがある。取っ手というより、ボタンのようだ。押し板……呼び鈴、か?
啓斗は初めて見るが、ケイトは初めてじゃない。仕組みはわからないが、使い方は知っている。慣れ親しんだ道具だ。
指先で押すと、チリンと小さな音がした。ずいぶん小さい音だ。
それなのに、数拍置いて、廊下の気配が動いた。
コツ、コツ。足音。規則正しい。迷いがない。
そして、ドアが軽く叩かれる。
「旦那様。エルドでございます」
この鈴、音で呼ぶんじゃないんだな。
何かの反応で呼んでいる。
魔道具というものなのだろうか。
ここが異世界なんだと、改めて気付かされる。
俺は喉を整えて答えた。
「入ってくれ」
ドアが静かに開き、エルドが入ってくる。朝の光の中でも、執事服は皴一つない。背筋は真っ直ぐで、目だけがこちらの体調を測っている。
「失礼します。お加減はいかがでございますか」
「頭痛はまだあるが、だいぶマシだ。起きられる」
エルドが小さく頷いた。
「水と粥をお持ちいたしましょうか」
「後でいい。先に話したいことがある」
俺がそう言うと、エルドは一歩下がって、いつでも聞ける姿勢になった。
「エルド。俺は、身を守ることを最優先にしたい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます