第1話 ケイト・アルノード

 言葉を発したものの、喉がひりついてせきこんでしまった。息を吸うたび、砂を噛むみたいに痛い。

 それでも、目の前の2人が現実として立っているのが分かった。

 マルタさんの手の中で、赤い瓶が揺れている。火の光を受けて、封蝋が濡れたみたいに光った。


「こちらを飲みますか、旦那様」


 エルドの声は低く静かで、落ち着いている。さすが執事といったところか。

 俺は首を振る力も弱い。だから視線で瓶を見て、それから2人を見る。

 ありがとう、と言いたいのに、喉が先に痛む。


「……大丈夫だ。ただ、起きたばかりで、状況がよく分からない。まず……話を聞かせてほしい」


「はい、ケイト坊ちゃん」


 マルタさんが瓶を抱えるみたいに胸元へ寄せた。五十を越えた年輪のある顔に、泣いた跡が残っている。手の甲には細かな傷。働き続けてきた手だ。


「マルタ、瓶は戻しておけ」


「はい、エルドさん」


 マルタさんが小さく頷き、赤い瓶を台に戻す。

 俺はその一連の丁寧な動きを見て、胸の奥で腑に落ちるような安心感がある。

 旦那様。坊ちゃん。ケイト。

 俺は、啓斗……いや、違う。

 俺はずっとケイトだった。ここで過ごした日々があった。石の床の冷たさも、油灯の匂いも、帳簿のインクの滲みも、知っている。

 そこへ、別の記憶が鮮烈に割り込んでくる。蛍光灯の白、深夜2時、パワポ、クリック、胸の締め付け。

 まるで、ふたつの人生が重なっている。

 俺は息を整えて、慎重に聞いた。


「……俺の名前は、ケイト?」


「はい。アルノード商会当主のケイト・アルノード様でございます」


 エルドがそう言った瞬間、胸の奥がすとんと落ち着いた。

 ケイト・アルノード。

 その名前が、俺の中のこちらの人生に正しい鍵として刺さったからだ。


「ごめんなさい、坊ちゃん。熱がひどかったから……医師も、目が覚めても混乱するかもしれないって」


 マルタさんが水を差し出しながら、慌てて言う。年上の女性らしい柔らかい声なのに、焦りがにじんでいる。

 混乱。2日も昏睡していれば当然だろう。けれど、俺の中には混乱だけじゃなく、確信も生まれていた。

 俺は水と一緒に喉の痛みを押し込めて、エルドに確認する。


「……俺は、どうやって倒れた」


 エルドが一拍だけ黙り、それから短く答える。


「取引先からの帰り道、誘拐されかけました」


 その一言で、背中が冷えた。


「……未遂か」


「はい。私が気づき、止めました。ですが旦那様は押され、石畳で頭を強く打たれた」


 マルタさんが堪えきれずに言葉を足す。年上の女性らしい、震えた声。


「2日も目を覚まさなかったのよ、ケイト坊ちゃん……熱もずっと」


「マルタ」


 エルドが低く呼ぶと、マルタさんは口を閉じ、強く頷いた。

 取引先。帰り道。誘拐未遂。頭部打撲。高熱。2日の昏睡。

 俺の中で、点と点がつながる。

 偶然じゃない。狙われている。


「襲った時の状況を教えてくれ」


「3人に襲われました。顔は隠しておりました。刃物を持ったものもおりました」


 3人。刃物を持っていたとなると計画的な犯行か。

 俺は赤い瓶、エリクサーへ一瞬だけ視線をやり、すぐに戻した。家宝を切るほど切迫していた理由が、これで分かった。


「心当たりはあるか?」


「……ございます。ただ、証拠がございません」


「いい」


 俺は短く頷いた。まず命を狙われていると確定した。それだけで今は十分だ。

 問題は次。

 俺は息を吐く。胸の奥で、記憶がもう一段噛み合っていく。


 15歳の時の両親の不審な事故死。

 そこから叔父が本店を預かる形で入り込んで3年。本店の権限は奪われ、俺は支店に追いやられた。

 さらに、支店は本店から切り離され、じわじわと嫌がらせで締め付けられている。

 正当なのアルノード商会の後継者は俺だ。

 分かっている。エルドもマルタさんも分かっている。だから、今もここにいる。

 けれど向こうは、本店にいる叔父は……

 ――支店は勝手に名を借りているだけ。俺は若い当主を名乗っているだけ。俺のほうこそ他所者だ、と。

 胸の奥が冷える。

 政治と印象操作は、どこの世界でも人を殺す。

 俺は声を出した。


「エルド。今の支店の状況を確認したい。頭を打って……記憶が食い違ってたら困るからな」


 エルドの眉が、ごく僅かに動いた。


「承知しました、旦那様」


「マルタさんも、気づいたことがあれば補足してほしい」


「はい、ケイト坊ちゃん」


 マルタさんは頷きながら、俺の枕元の水差しに手を伸ばし、器に少しだけ注いだ。動きが丁寧で、こういう場面に慣れている。

 俺は喉を潤し、咳き込みそうになるのを抑えてから続ける。


「この支店、昔は本店のかなめだった。地方の取引をまとめて、物流も回してた」


「はい。先代様の代までは、その通りでございます」


 エルドが頷く。


「穀物、布、塩、鉄。定期便を組み、周辺の商会からも信用がありました」


「でも今は、取引先が言葉を濁す。……仕入れが滞っているよな」


「ええ。品が止まります」


 エルドが短く言う。


「『本店の許可待ち』と言われ、支店に回る荷が遅れる。遅れれば売れない。売れなければ現金が減る」


 マルタさんが悔しそうに続けた。


「棚が空くと、常連さんが離れます。『最近のアルノード支店は品物がない』って」


 俺は頷く。思い出しかけた空っぽの棚が、脳裏をよぎる。


「仕入れ値も、支店だけ高くされてる気がする。利益が薄い」


「はい。不自然でございます」


 エルドは淡々と肯定する。


「表向きは市況のせい。しかし、支店だけが割高でございます」


 俺は息を吐く。

 つまり、本店が物流と価格で首を締めている。


「資金は……足りてるか?」


 マルタさんが目を伏せた。

 エルドが短く答える。


「厳しいですね。手元金は減っております」


「固定費が重いな。人件費、建物の維持、税……」


「はい」


 エルドが頷く。


「先代様の蓄えも、『本店再建』名目で取り上げられました。手続きは整えられており、こちらは拒めぬ形です」


 俺の腹が冷える。法の則って奪ってくる。


「人は……今、何人で回してる?」


「4人です」


 エルドがはっきり言った。


「私、マルタ、ゴドー、ニナ。以上です」


 倉庫番兼修繕のゴドー。若手店員のニナ。名前を聞いて、記憶がすっとなじみ胸が少しだけ温かくなる。

 ゴドーは不器用な優しさで、ニナは口は回るけど根は真面目で、最後までついてきてくれた大事な従業員だ。

 俺はゆっくり息を吐いた。


「増やせない。金もないし、増やしたら本店に口を出される」


「はい」


 俺は少し考えてから、もうひとつだけ確認する。


「俺は当主なのに、勝手に動けない。これまでの取引に関しては本店の承認が必要……そうだったよな」


「その通りでございます」


 エルドが言い切る。


「契約を改められました。支店の取引は本店承認が必要。帳簿の監査も頻繁で、独自の動きは越権扱いされます」


 俺は目を閉じる。

 動けば潰される。動かなければ衰弱死。詰みの形だ。

 でも、思い出せることが増えている。


「それでも俺は、取引先に会いに行ってた。エルドと一緒に。関係を切られないように、つなぎを残すために」


 エルドが、ほんの僅かに目を細めた。


「はい、旦那様。取引先も圧力を受けております。だから旦那様は、定期的に足を運ばれた」


 マルタさんの声が柔らかく震える。


「坊ちゃん、逃げてません。ずっと、やり方を探しておられました」


 俺は頷いた。

 状況は揃った。

 仕入れを止められ、価格をいじられ、現金を抜かれ、承認で縛られる。人手は最小。信用は削られる。さらに命も狙われた。

 俺はエルドを見た。


「誘拐未遂は偶然なはずがないな」


 エルドの顔から温度が消える。


「ええ」


 俺は喉の痛みを押し込み、静かに頷いた。


「分かった。ありがとう、エルド。マルタさんも」


 状況の整理はできた。

 なんだ、このいきなりハードな状況は。

 いや、多分、向こうの世界で俺は死に、今ここで死にかけたことで色々と思い出したのだな。

 まだ、望みはある。

 状況は絶望でも、今、この瞬間にコンサルとして生きてきた能力をつかえるなら。

 ただ、いったん何を優先すべきか考える必要があるな。

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