元コンサルの俺が乗っ取られた名家商会を立て直す――奴隷の白狼少女と始める、異世界商会リイマジンド
炭酸水
プロローグ
白い光が、天井から降り注いでいた。
蛍光灯。オフィス特有の、乾いた明るさ。
カタカタ、カタカタ。誰かのキーボードの音が四方から聞こえる。深夜のフロアは静かなのに、作業音だけがやけに鮮明だ。
背中には、値段も含めて立派なオフィスチェア。座り心地は最高なはずが、長時間労働には無力で腰はすでに悲鳴をあげている。
目の前のノートPCには、グラフと表がびっしり詰まったスライド。右下には社名を示すコンサルティングファームのロゴ。
画面隅の時刻は、午前2時をとうに過ぎていた。
「篠原くん、ここ、もう一段『危機感』が伝わるプレゼン内容にできないか」
背後から先輩の声が飛ぶ。
眠気で重くなった頭を軽く振って、俺、篠原啓斗は、口角だけを上げて振り返った。
「そうですね……競合比較を足して、『このままだと3年以内にキャッシュが尽きる』って、はっきり書いちゃいましょうか」
「おお、いいね。いつもギリギリのラインを攻めてくるね、篠原くん」
先輩は軽口を叩きながら、紙コップのコーヒーを机に置いていく。
苦味だけが強いコンビニのブレンド。そこに徹夜の匂いが混ざる。喉はすでにカラカラなのに、条件反射みたいに一口だけ飲んでしまう。
胃が、きゅっと縮んだ。
赤い矢印。破綻ライン。固定費。人員。売上の下振れ。どれも、数字としては綺麗に並べられる。
最初は震えていた手つきも、もう慣れた。慣れてしまった。
いつの間にか、数字は「会社の体温」じゃなくて「終わり方の予測」になっていた。正しいロジックを積めば積むほど、未来の選択肢が削れていくのが見える。
ここは合理的に考えると、やるべきことはひとつだ。
現実を言語化する。
救えた会社もある。
立て直しに成功して、社員の顔から疲れが抜けていく現場も見た。
でも、救えなかった会社の数のほうが、たぶん多い。
最適化と合理化の先に残るのが、「切り捨て」しかない現実。どれだけ立て直しプランを用意しても、どうしようもないケースは確かにあった。
ニュースの小さな記事で見た、ひとつの結末。リストラ。倒産。家族ぐるみで路頭に迷った元社員。
俺の提案が直接の引き金だったわけじゃない。
分かっている。
分かってはいるのに、胸のどこかがずっと重い。
数字は正しい。ロジックも間違っていない。
でも、泣いていたあの中年社員の表情は、グラフのどこにも載っていない。
その違和感を、エナジードリンクで飲み下して、またパワポを開く。そうやってここまで来た。
◆◆◆◆◆◆
その夜も、終電ぎりぎりだった。
地下鉄の車内はまばらで、スーツ姿が点々と座っているだけ。
窓ガラスに映る自分の顔は、蛍光灯の白さに洗われて、別人みたいに見えた。
吊り広告には「働き方改革」の文字。少しだけ笑いそうになって、やめた。笑ったところで、何も変わらない。
部屋に戻ると、むっとした空気が押し寄せてきた。換気する余裕もなく飛び出したせいで、疲れと汗と紙の匂いが残っている。
ベッドに倒れ込んで、天井を見る。
今日の社長の顔が浮かんだ。
「うちは大きくはないけど、社員は家族だと思ってるんです」
打ち合わせのとき、そう言って笑っていた。隣の女性社員が、ほんの少し誇らしげに肩を上げたのも覚えている。
キャッシュフローは、あと数年で尽きる可能性が高い。今日の提案は、ギリギリの舵だ。
でも、本当に足りているか。
見落としている手はないか。
胸の奥がざわつく。痛いような、苦しいような。
目を閉じれば体も頭もすぐ休めるのに、それが怖い。
社長が最後に漏らした言葉が、耳の奥に引っかかったままだった。
「正直、怖いんですよ。社員や家族の顔を見ると、失敗できないって思う。でも、何を変えればいいのか、もう自分でも分からないんです」
心臓がどくん、と強く打った。がば、と上体を起こす。
「……まだ、終わってない」
カバンからノートPCを引きずり出して、電源を入れる。
開いたのは、提案書じゃない。
「案C」とだけ書いたパワポだ。
今日の会議では、無難なプランAと、踏み込んだプランBまでしか出していない。
案Cは、数字の上では厳しい。反発も必ず出る。痛みを伴う選択を、真正面から書いたスライド。
でも、あの社長の覚悟を持った『怖い』を思い出した瞬間、机の引き出しにしまっておく理由が、急にくだらなく思えた。
「怖いのは、こっちも同じですよ、社長……」
誰もいない部屋で苦笑する。
キーボードを叩く。構成を直して、図表を足して、言葉を削って、刺さる形に整える。時間の感覚が薄れていく。
画面の端の時刻が、2時を過ぎて、3時に近づいた。
目の奥が熱い。しょぼしょぼと乾いた目では、瞬きをするたびに痛い。
肩は鉛みたいに重い。それでも指は止まらなかった。
保存ボタンをクリックする。
「よし、これなら……」
ここまでで送信しよう。
その瞬間だった。
胸の奥の違和感が、急に痛みに変わった。締め付けるような、熱いのか冷たいのか分からない感覚が、胸から腕、首筋へと広がっていく。
「……あれ」
声にならない声が漏れる。
視界の端で、時計の針が3時を少し回ったところを指している。PCの画面が、ふっと滲んだ。
指先に力が入らない。慣れ親しんだマウスが、やけに遠い。
机に突っ伏して、呼吸を整えようとする。心臓の鼓動が、遠くで鳴っているみたいに聞こえた。
せめて送信しないと、そう思ったのに、体が言うことを聞かない。
まぶたが落ちる。世界の音が薄くなる。
クリックする感触だけが指先に残って――そのまま、暗闇が静かに覆いかぶさった。
◆◆◆◆◆◆
――声がする。
遠い。水の底から聞こえるみたいに、言葉だけがふわりと浮かんで、輪郭が揺れている。
俺は目を開けられない。瞼が鉛みたいに重い。頭の奥がずきずき脈打って、喉が砂で擦れたみたいにひりつく。
それでも、音だけは拾える。
「……マルタ」
低い男の声。落ち着いているのに、硬い。命令でも懇願でもない、長年場を背負ってきた人間の声だ。
「はい、エルドさん」
年のいった女性の声が返す。息を潜めたように小さいのに、震えが隠しきれていない。気丈に振る舞っているのが、逆に分かる。
男が続ける。
「もう2日だ。旦那様は、2日間も目を覚まされぬ。医師も匙を投げかけている」
2日。
その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥がひやりとした。俺の時間感覚が、ぎしりと軋む。
自宅で倒れて、目の前が暗くなってその、続きが、2日も抜け落ちている?
マルタと呼ばれた女性が、唇を噛む気配がした。
「分かっています。分かってますけど……」
「なら、決めるべきだ」
エルドと呼ばれた男性の声が、いつもより少しだけ低く沈む。
その沈み方が、緊迫を連れてくる。静かな部屋の空気が、一段重くなるのが分かった。
ん?いつも?初対面のはずなのに、なぜ俺は彼の「いつも」を知っている?
「家宝のエリクサーを使う。今夜だ」
エリクサー。
その単語だけが、妙に鮮明に刺さる。
ゲームとかファンタジーで聞く単語だが、夢でも見てるのか?
いや、この慣れ親しんだ頭痛は本当だ。
俺は無意識に息を吸って、喉が痛んで咳き込みそうになる。必死で堪える。音を立てたら、会話が止まる。
「……エルドさん、あれは……」
マルタさんの声が揺れる。迷いというより、恐れだ。大切なものに手を伸ばす前の、怖さ。
それに対して、エルドは短く、きっぱり言った。
「家宝だろうと、何だろうと、旦那様の命より重いものではない。あれなら治る。治らぬはずがない」
その言い方が、祈りに近い。
自信を装っているのに、ほんの少しだけ縋る気持ちが混じっている。偉そうな強さじゃない。背負う立場の強さだ。
マルタさんが息を吐いた。覚悟を決めた息。
「……はい。私も賛成です。坊ちゃんがいなくなったら、支店も……この家も……」
声が震える。それでも、言い切る。
俺は、頭の奥の痛みの中で、引っかかりを覚えた。
坊ちゃん。
支店。
旦那様。
それが全部、俺のことを指していると理解できる。意味が分からないのに、現実の重みだけが伝わってくる。
「持ってきます。いますぐ」
マルタさんの足音がする。布が擦れる音。年齢の割に速い。慣れた人の動きだ。誰かに仕える仕事を長く続けてきた身体の軽さ。
「マルタ、急げ」
「分かってます、エルドさん!」
返事が、少しだけ強い。叱られてるわけじゃないのに、焦りが声を尖らせる。2日も目を覚まさない人間を前にして、平静でいられるはずがない。
足音が遠ざかる。
部屋には、エルドと呼ばれる男性の気配だけがある。
近くに立っている。視線が俺に落ちている。見守るというより、守っている、そんな気配。
静かになると、他のことへも意識が向く。色々な匂いが鼻を刺した。
鉄と土。薬草。油の灯。俺の部屋に油なんてないんだがな。
記憶にない匂いに、意識が覚醒し始める。
病院かと思ったが、独特の消毒薬の匂いがない。自宅では鉄や土の匂いがするはずない。
ならば、……ここは、どこだ?
俺の意識の底で、警報が鳴る。
俺は必死で瞼を持ち上げようとした。
ぼんやりと、視界が白く滲む。光が揺れている。蛍光灯じゃない。橙色の火の光。
天井は木の梁。壁は石。古い建物の匂い。
日本じゃない。病院でもない。
その時、扉が開く音がした。
先ほど部屋を出た女性、マルタさんが戻ってくる。息が少し上がっている。
「持ってきました。あとは――!」
その声が途切れる。
俺の瞼が、ようやく開いたからだ。
ぼやけた視界の中に、2人の姿が映った。
まず、エルドと呼ばれた男。
背が高い。歳は50代後半くらいだろう。白髪が混じった髪をきっちり撫でつけ、皺の刻まれた顔は厳しいのに、目だけが鋭く優しい。黒を基調にした執事服のような装いは皴一つなく、姿勢が異様に良い。
次に、マルタさん。
同じく50代くらいだろうか。髪はまとめられていて、働き者の手の甲には細かな傷がある。エプロンの紐がきつく結ばれ、目元は赤い。泣いたあとだろうか。心配と責任を、同時に抱えている顔。
そしてマルタさんの手には、細長いガラス瓶が大事に抱えられていた。
赤みのある液体。見たことがないような鮮やかな赤で、うっすらと光を出していた。
俺は喉の痛みで声が割れそうになりながら、言葉を絞り出した。
「……ここは……」
マルタさんが、目を見開く。
「ケイト坊ちゃん……!」
エルドが一歩、静かに近づく。足音が妙に重い。安心と緊張が同居している。
「旦那様。お目覚めでございますか」
旦那様。
その呼び方が、胸の奥に落ちた。
そう、俺は彼らの旦那様だ。
俺は息を吸って、喉のざらつきに耐えた。
記憶がおかしいが、今の状況を俺は知っている。
なぜだ?
まず、情報を集めないと。
でも今は、その前にやるべきことがある。
俺は赤い瓶を見たまま、2人を見て、できるだけ穏やかに言った。
「……何日も悩ませて、ごめん。俺……今、何が起きてるのか、教えてほしい」
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