第4話 手配の慣習

朝の庁舎は、いつもより静かだった。


人が少ないわけではない。

声が小さいわけでもない。


ただ、話題が少なかった。

廊下を行き交う人々の足音はいつも通りだが、

何かが微妙に控えめで、空気に張りがない。

窓の光は穏やかに差し込むが、温かさよりも透明な静けさを運んでくるようだった。


手配課に入ると、机の配置が微妙に変わっていることに気づいた。

一つ席が減っていた。


昨日まで、確かにそこに机があった。

誰の席だったかは、思い出せない。

見覚えのある椅子の痕跡だけが、床にわずかに残っている。


私は何も言わず、自分の席に座った。

机の冷たさに手を置き、帳簿を開く。

朝の光に照らされた書類の端が、少しだけ影を落としている。


案件は、通常通り回ってきた。

その中に、見覚えのある形式のものが混じっている。


「手配対象:未登録

内容:現状維持」


未登録、という項目は、本来存在しない。

登録されていないものは、手配対象にならない。


だが、その書面は正式なものだった。

書式も、印も、すべて揃っている。

ページの白地に朱印が光り、何の違和感もなく並んでいる。

その違和感のなさが、逆に奇妙だった。


私は規定集を開いた。

該当項目は見つからない。

見つからないまま、ページをめくる手が止まる。

同僚が、軽く肩越しに声をかけてきた。


「それ、最近増えたな」


「……未登録、ですか?」


「そう。気にしなくていい」


彼は、そう言って書類を一瞥した。

「現状維持って書いてあるだろ。なら、維持するだけだ」


私は頷き、用紙に印を押した。

判断はしていない。

指示に従っただけだ。

手を動かす指先にだけ、今日も日常がある。

机の上の書類と印が、静かに世界を整えている。


昼過ぎ、別の部署で小さな揉め事が起きた。


「席が足りない」


誰かが言った。


「でも、これで定数は合ってる」


別の誰かが、そう返した。


どちらも正しいように聞こえた。

だが、正しいということは、必ずしも世界が正しいわけではない。


話はそれ以上、広がらなかった。

誰も深く考えず、誰も確認せず、ただ言葉だけが流れていった。


午後、手配課の掲示板に、新しい注意書きが貼られた。


「未登録案件については、従来通り処理すること」


従来、という言葉が引っかかった。

いつから、それが従来になったのか。

だが、誰も疑問を口にしない。


誰も確認せず、誰も違和感を認めない。

それが、この世界の慣習なのだろう。


帰り際、私はもう一度、減った席を見た。

空間だけが残っている。

机を置くには、少し狭い。

最初から、こうだったのかもしれない。

そんな気もしてくる。


庁舎を出ると、街は相変わらず穏やかだった。


人は歩き、会話をし、笑っている。

欠けているものがあるようには見えない。

だが、心の端で何かが引っかかる。


昨日の空白、減った机、未登録の書類。

それらが、静かに、しかし確かに、世界の形をずらしている。


世界は、慣れていく。

減っているものが何なのか、誰も気づかないまま。

私は今日も安全で、判断もせずに日常を繰り返す。


――手配は、今日も滞りなく行われた。

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