第3話 手配の重さ
その日、最初に届いた案件は、差し戻しだった。
理由欄には、短くこう書かれている。
「手配内容に齟齬あり」
私は首を傾げた。
この手の文言は珍しくない。
だが、差し戻されるほどの不備は、思い当たらない。
帳簿を開く。
番号は合っている。
手配対象も、手順も、規定通りだ。
齟齬と呼べる部分は見当たらなかった。
だが胸の奥には、わずかに冷たい違和感が漂っていた。
規定通りに処理すること、それだけが私の役目だと分かっていても、何かが静かに、しかし確かにおかしい。
私は規定集を開き、再確認し、同じ処理を行って再送した。
判断は加えていない。
ただ、紙に印を押す。
それだけで世界は少しだけ整うはずだった。
しかし心の隅にくすぶる影は消えない。
昼前、同じ案件が再び差し戻される。
今度は理由欄が空白だった。
何も書かれていない。
ただ、返ってきている。
私は一瞬迷った。
しかし規定通りに処理した。
空白は、こちらの責任ではない。
それでも胸の奥には冷たいものが沈んだままだ。
空白の向こう側に、誰も触れない何かが潜んでいる気配。
ちらりと窓の外を見る。
街は普段通りで、子どもが走り、店が開く。
だが空気の端に、わずかに異様な影が揺れるような気がした。
午後、別部署の職員が、珍しく手配課に直接やってきた。
「これ、見てくれ」
差し出された紙には、巡回部隊の一覧が整然と記されていた。
一名分、名前が消えていた。
欄は残っている。
名前だけが、ふわりと宙に浮いたかのように消えている。
「記載漏れでは?」
「いや。昨日まではあった」
職員は、そう言って紙を裏返した。
裏面にも同じ空白がある。
「登録自体が、消えてる」
私は何も言えなかった。
帳簿を開き、該当する番号を探す。
そこには、最初から何も書かれていないかのように見えた。
違和感が、遅れてやってくる。
空白の向こうで、見えない力が世界の端をそっと触れているような感覚。
背筋に小さな震えが走る。
「……手配は、していません」
自分の声が、少し遅れて耳に届く。
「そうだろうな」
職員は頷いた。
「だから、誰の責任でもない」
その言い方が、少しだけおかしかった。
誰も責任を取れない。
だが目の前の空白は確かに存在している。
午後、似た案件がもう一つ来た。
やはり巡回経路の再確認。
私は同じように処理した。
判断はしていない。規定通りだ。
窓の外を見れば、街は普段通り。
人々が歩き、店は開き、子どもたちの声も聞こえる。
だが通りの奥で、微かに違和感のある影が揺れる。
軒先にたむろする羽虫たちの湿った羽音や、
石畳を転がる荷車の車輪の音も、場の違和感を覆い隠すために響いているように感じられた。
帰り際、私は手配課の古い棚に目を向けた。
ほとんど使われていない書類が並んでいる。
制度改定前の記録だ。
一冊だけ、背表紙の文字が読めない帳簿があった。
抜き取ろうとした瞬間、上司の声がした。
「それは触らなくていい」
振り返ると、上司が立っていた。
「規定外だ」
「……はい」
私は手を引っ込めた。
帰り際、庁舎の掲示板に張り紙が増えているのに気づいた。
「一部区域への立ち入り制限について」
理由は書かれていない。
小さな文字で「注意」とあるだけ。
誰も説明せず、誰も確認しない。
胸の奥に冷たいものが落ちたまま、戻らない。
外に出ると、街はいつも通りだった。
人は歩き、子どもが駆け、店の扉が開く。
だが通りの向こうで道を引き返す集団が視界の隅にあった。
誰も不思議がっていない。
私も立ち止まり、黙って見つめるしかなかった。
その日、記録上、問題は発生していなかった。
だが微細な歪みは確かに存在した。
手配士として判断をせず、私はただ影の変化を傍観しただけだった。
世界は、わずかに形を変えていた。
誰にも気づかれないように、静かに、不可解に。
私は今日も、判断をしていない。
その夜、帰宅してから、ふと気づく。
今日、誰かが「行方不明になった」とは、誰も言っていない。
いなくなったのは、人ではなく、記録だ。
――記録に存在しないものは、誰も探さない。
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