第2話 手配の揺らぎ

朝、庁舎に入ったときから、少しだけ空気が違っていた。


騒がしいわけではない。

人の数が増えたわけでもない。

ただ、廊下を歩く足音の間隔が、いつもより微妙に揃っていなかった。

何かが、ほんのわずかに乱れている。


空気が、わずかに重く、湿り気を帯びているような感覚。

思わず肩をすくめ、手元の書類を確かめる。


手配課に入ると、机の上に一つだけ封筒が置かれていた。

珍しいことだった。通常、案件はまとめて回ってくる。


封を切る。


「手配対象:第三区域巡回部隊

内容:巡回経路の再確認」


ごく普通の案件だ。

私は規定集を開き、該当項目を確認する。

巡回経路はすでに登録済み。再確認の必要はない。


私はそのまま「変更なし」の印を押し、封筒を戻した。

それで終わりのはずだった。


だが、午前中の終わり頃、別部署の職員が顔を出した。


「昨日の巡回、知ってるか?」


「いいえ」


「第三区域で、部隊が一つ戻ってきてない」


声は低く、雑談のようだった。緊張は感じられない。

それでも、胸の奥に微かなざわめきが走った。

誰も口にしないが、何かが正常でない。

世界の小さな歪みが、視界の端にだけ映っているような感覚だった。


「迷ったんじゃないかって話になっててさ。経路、変更されてなかった?」


「いいえ。手配は通常通りです」


「そっか」


それだけ言って、職員は去っていった。

私は帳簿を確認する。

昨日の記録に、異常はない。

印は正しく押され、番号も合っている。

だが、どこかの影が微かにずれているような気がした。

見えない力が、世界の隙間から忍び込んでいるかのようだった。


昼休み、同僚がぽつりと言った。


「最近さ、戻らない案件が増えてるらしいな」


「そうなんですか」


「ま、手配課のせいじゃないけど」


彼は笑った。冗談のように。

それでも胸の奥に冷たいものが沈み込む。

笑顔の裏に薄い影がある。何か、誰も触れないものが存在している気配。


午後、似た案件がもう一つ来た。

やはり巡回経路の再確認。

私は同じように処理した。

判断はしていない。規定通りだ。


窓の外を見れば、街は普段通り。

人々が歩き、店が開き、子どもたちの笑い声も聞こえる。

しかし、通りの奥で、何かが微かに歪んでいる。

人々は何も気にしていない。

鳥のさえずりも、遠くの荷車の車輪が石畳に当たる音も、違和感を覆い隠すために響いているかのように感じられた。


私はふと、視線を手元の書類に落とす。

ページの端が、ほんの少し揺れている。

手は動かしていない。息も荒くない。

ただ、書類の端が揺れ、時間の感覚が微かに狂ったように思えた。


帰り際、庁舎の掲示板に張り紙が増えているのに気づいた。


「一部区域への立ち入り制限について」


理由は書かれていない。

小さな文字で「注意」とだけある。

誰も説明せず、誰も確認しない。

ただ、胸の奥に冷たいものが落ちたまま、戻らない。


外に出ると、街はいつもと同じだった。

人は歩き、子どもが駆け、店の扉が開く。

だが、通りの向こうで、道を引き返す集団が視界の隅にあった。

誰も不思議がっていない。

そして、私も立ち止まり、黙って見つめるしかなかった。


その日、記録上、問題は発生していなかった。

だが、微細な歪みは確かに存在した。

手配士として、判断をしなかった自分は、ただ影の変化を傍観しただけだった。


世界は、わずかに形を変えていた。

誰にも気づかれないように、静かに、そして不可解に。

私は今日も、判断をしていない。


それが、私の役目であり、日常であることを、胸の奥でかすかに感じていた。


――記録上、問題は発生していなかった。

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