第3話 忘れても、選ぶ
縄が、私の手首に回される寸前だった。
レオンの指は冷たい。敬語の声。遠い目。
なのに――掴まれた場所だけ、昨日と同じだった。守る配置で、私を逃がさない拘束。
「……レオン」
呼んだ声は、震えた。
司教は穏やかな笑みのまま、杖を軽く鳴らす。
「誓約は忠実ですね。感情は、命令の邪魔になりますから」
私は歯を食いしばった。
泣いてる場合じゃない。怒鳴っても届かない。なら――“届く方法”を使う。
私は、あえて息を整えた。悪役令嬢の仮面じゃない。生き残るために、頭を回す私の顔。
「司教様」
司教が眉を上げる。私が従うとでも思ったのだろう。
「拘束、でしたよね?」
「ええ」
「なら、ちゃんと縛ってください。――レオンが手を滑らせないように」
司教の笑みがわずかに深くなる。
その瞬間、私は体を半歩寄せて、レオンの胸元に額をぶつけるように近づいた。
狙いは一つ。
彼の左手――輪の痕に、私の薬指を触れさせる。
ちり、と熱が走った。
レオンの肩が跳ねる。
瞳が一瞬だけ、濃い色を取り戻した。
「……っ」
「レオン。読むの。これを」
私は隠していた手帳を彼の視界に滑り込ませる。
表紙に触れた途端、レオンの指が勝手にそれを掴んだ。まるで身体が“戻り方”を知っているみたいに。
司教の杖が床を打つ。
「触れさせるな!」
教会騎士が動く。けれどレオンが反射で一歩前に出て、私を背に庇った。命令で拘束しているはずなのに、守る動作だけが先に出る。
――今だ。
私は息を吸い、声を絞り出した。
「あなたが書いたの。昨夜のあなたが。
『今日の俺は、ミアを選ぶ』って」
レオンの瞳が揺れる。
手帳が開かれ、太い字が現れた。
『今日の俺は、ミアを選ぶ。
鐘が鳴って空になっても、命令より先にこの文を読め』
文字を見た瞬間、レオンの喉が鳴った。
痛そうに眉を歪め、片膝をつく。
「……俺は……」
「あなたに、私を“回収”させない」
私は彼の額に手を当てた。
輪の痕が熱い。痛いほどに。
司教が冷たい声で命令を重ねる。
「拘束しなさい。今すぐ」
レオンの身体が、ぐらりと揺れる。
命令に従う力と、手帳の言葉と、そして――私の温度が、引き裂き合っている。
私は、もう一度、薬指を彼の左手に押し当てた。
「レオン。私を見て」
彼の瞳が、私を捉えた。
ほんの短い時間だけ。鐘が鳴る前の、昨夜の彼の目。
「……ミア」
かすれた声で、彼は私の名を呼んだ。
司教の笑みが消える。
「……異魂が、誓約を乱す。ならば儀式を早めましょう」
教会騎士が私の肩を掴もうとする。
レオンが剣を抜いた。抜いたのに、刃先は――私ではなく、騎士の足元を切り裂いた。
「近づくな」
声は低く、震えていた。
命令に逆らう言葉を吐くたび、彼の輪の痕が疼いているのが見える。
司教が杖を振り上げた。
「反逆は許しません。誓約に従いなさい、レオン・ヴァルデ。
――その女を“祭壇”へ運べ」
命令が、形を変えた。拘束より強い。逃げ道のない言葉。
レオンの身体が硬直する。剣が落ちそうになる。
私は叫びそうになって、飲み込んだ。
ここで抗っても、潰される。
なら、私が決める。
「……分かった」
私が言うと、司教が少しだけ満足げに頷いた。
「賢明です」
私はレオンを見上げた。
彼は苦しそうに歯を食いしばり、でも私から目を逸らせない。
私は、彼の手を握り返した。縄があるのに、指先だけが触れ合う。
「レオン。運ぶなら、あなたが運んで」
司教が笑う。
「ええ、そうなさい。隊長が自ら運べば、無駄な抵抗も減るでしょう」
レオンは私を抱き上げた。
その腕は、昨日と同じ。怖いくらい優しい。
けれど目だけが、泣きそうだった。
私はその耳元に、息をかけるように囁いた。
「いい? 私が合図したら――手帳を開いて。どんな命令より先に読むの」
レオンの喉が上下する。
頷いたのか、震えただけなのか分からない。でも私は信じる。
私たちは礼拝堂へ連れて行かれた。
詰所の中の、小さな祭壇。壁に刻まれた輪と断ち切る線。
あの祠の文が、脳裏で燃える。
『輪を断つ者は、輪に縛られぬ。されど、代償を払う』
代償。
払うべきものは、もう分かっていた。
*
祭壇の床に、白い粉で円陣が描かれていた。輪。
その中心に私が立たされる。縄を解かれたのは、逃げられないと確信しているからだ。
「異魂よ」
司教が私に向けて杖を掲げた。
「輪の外で迷う魂。還りなさい。あなたの魂は、ここで“正しく”繋がれる」
正しく。
その言葉が、吐き気を誘った。
私の背後に、レオンが立つ。
彼は司教の命令で、私を見張る役。
だけど、その視線だけは、ずっと私に縫い付けられている。
司教が祈祷文を唱える。鐘が鳴る。礼拝堂の天井が震える。
輪の線が、薄く光り始めた。
私は深呼吸した。
怖い。
でも、ここで逃げれば、私は“回収”される。レオンは一生、忘れ続ける。
私は、決めた。
輪の外から来たものとして、輪を断つ。
私はそっと薬指に触れた。白い痕。
この印がある限り、私は“異物”だ。
それを利用して、誓約を裂く。――その代わりに、私はきっと、輪の外の記憶を失う。
前世の私。
ゲームの知識。破滅ルート。
全部が消えても、構わない。
私は今を生きる。
そして、レオンを自由にする。
司教が低く囁く。
「輪に繋がれれば、あなたは救われる。苦しみは終わりますよ」
私は笑った。
「救いって言葉を使う人ほど、奪うのが上手いのよね」
司教の眉がぴくりと動く。
「――黙りなさい」
命令が、空気に重く落ちた。
喉が締まり、声が出なくなる。さすがに、転生者の口を封じる程度の術は簡単らしい。
でも、私には――言葉以外がある。
私はレオンを見た。
彼の胸元に、手帳はない。私が持っている。
私は円陣の端に置かれた儀式用の短剣を見つけ、躊躇なく掴んだ。
教会騎士が動こうとした瞬間、司教が手で制した。
「放っておきなさい。輪の中で何をしようと、逃げられはしない」
そう。輪の中では、彼らが優位。
でも――輪の外の魂が、輪を“断つ”なら?
私は短剣の切っ先を、自分の薬指に当てた。
皮膚に触れた瞬間、輪の痕が熱く燃え上がる。
痛みで視界が滲む。
司教が初めて焦った顔をした。
「やめなさい! 異魂の印を傷つけるな!」
私は、痛みを抱えたまま、ゆっくりと笑った。
声は出ない。けれど、目で言った。
――奪われる前に、私が捨てる。
短剣を引いた。
血が滲む。輪の痕が、ひび割れるように薄くなる。
同時に、礼拝堂の空気が反転した。
円陣の光が、内側ではなく外側へ弾ける。
司教の杖が震える。
「……な、何を……!」
私の喉の枷が、ふっと緩んだ。
声が戻る。
「輪を断つ者は、輪に縛られない。――代償を払うのは、私よ」
私は短剣を床に落とし、血の滲む指で円陣の線をなぞった。
そして、最後に、レオンへ手を伸ばす。
「レオン」
彼の瞳が揺れる。
司教の命令が、また落ちる。
「レオン・ヴァルデ! その女に触れるな! 剣を取れ! 異端を――」
けれど私は、レオンの左手を掴んで引いた。
彼の輪の痕に、私の血が触れる。
ちり、ではない。
今度は、雷みたいな衝撃。
レオンが息を呑み、――次の瞬間、彼の目に“熱”が戻った。
「……ミア……!」
司教が叫ぶ。
「誓約に従え!」
レオンの身体が一瞬だけ硬直し、苦しそうに歯を食いしばった。
でも彼は、私の手を離さなかった。
私は、手帳を彼の胸に押し当てた。
「読むの!」
レオンは震える指でページを開く。
太い字が目に入った瞬間、彼の喉から、獣のような呻きが漏れた。
「……っ、俺は……命令より……」
彼は、自分で言葉を選ぶように、一語ずつ吐き出した。
「今日の俺は、ミアを選ぶ」
言い切った瞬間、礼拝堂の鐘が鳴った。
祝福の音。切り替えの音。
いつもなら、ここで彼は空になるはずだった。
けれど――レオンの瞳は、消えなかった。
代わりに、彼の左手の輪の痕が、ぱきん、と音を立てるみたいに裂けた。
焼き印のようだった結び目が、崩れ落ちる。
司教の顔から血の気が引く。
「……ありえない。誓約が……!」
レオンは、ゆっくりと剣を拾い上げた。
その剣先が向いたのは、私ではなく――司教だった。
「終わりだ」
司教が杖を掲げ、教会騎士が一斉に動く。
レオンは迷いなく踏み込み、剣を振るった。流れるような斬撃。詰所の兵士たちも駆けつけ、礼拝堂は一瞬で戦場になる。
私は円陣の中に膝をついた。
視界の端が白くなる。
――消えていく。
前世の景色。ゲームの画面。音楽。破滅ルート。
“知っていたはずの未来”が、砂みたいに崩れていく。
怖かった。
でも、変に安堵もあった。
これで私は、台本から降りる。
誰かが作った物語じゃなく、私の物語を生きる。
司教が最後の抵抗として私に手を伸ばす。
「異魂……戻れ……!」
レオンが司教の杖を弾き飛ばし、首元に剣を突きつけた。
「命令はもう聞こえない」
司教は呻き、悔しそうに笑った。
「自由……ですか。自由は混乱を生みます。輪が乱れれば、この国は――」
「それでも」
レオンの声は、揺れない。
「奪われた心より、混乱の中の選択のほうが、俺は欲しい」
司教は言葉を失った。
剣が、杖が、床に落ちる音がした。
戦いが終わる。
礼拝堂に残るのは、荒い呼吸と、雪の匂いを含んだ冷たい空気。
レオンが私の元へ駆け寄る。
「ミア!」
彼の手が私の頬に触れる。今度は止まらない。
温かい。ちゃんと人の手だ。
「大丈夫だ、ここにいる。……聞こえるか」
私は頷こうとして、視界が揺れた。
頭の中が、空っぽになっていく。
でも――目の前の彼だけは、消えない。
「……レオン」
声がかすれる。
彼は私を抱き締めた。強く、怖いほど必死に。
「忘れるな。……俺のことを」
私は笑いたくなった。
彼が“忘れる側”だったのに、今は私が消えそうで。
「……前の私のことは、忘れるかもしれない」
言葉を探しながら、私は正直に言った。
「でも、あなたを選んだことは……残したい」
レオンの瞳が濡れた。
「残る。残るに決まってる。……俺が、毎日でも思い出させる」
私は、その言葉に救われた。
私は、最後の力で彼の襟元を掴み、唇を重ねた。
短く、確かめるだけのキス。
「……また、恋をして」
それだけ言って、私は彼の胸の中で意識を手放した。
*
目を覚ましたとき、窓の外は白かった。
雪が静かに降っている。詰所の医務室。薬草の匂い。
隣の椅子に、レオンが座っていた。肘をつき、眠っている。外套は乱れ、髪もほどけている。
私は、胸がきゅっとした。
……なんでだろう。
理由が分からないのに、涙が出そうになる。
私が身じろぎすると、レオンが跳ね起きた。
「ミア!」
彼は私の手を掴んで、確かめるみたいに何度も握る。
その手の甲に、輪の痕はなかった。薄い傷跡だけが残っている。
「……ここは?」
「詰所だ。司教は拘束した。教会騎士も、証拠も押さえた。……君は、三日眠ってた」
三日。
私は自分の薬指を見る。輪の痕は、ほとんど消えていた。小さな薄い線が残るだけ。
「……私、何か……大事なことを忘れてる気がする」
言った瞬間、レオンの表情が固くなった。
でも彼は、すぐに私の額に自分の額を当て、低く笑った。
「いい。忘れていい」
「え?」
「君が苦しむ記憶なら、全部置いていけ。……それでも君は、ここにいる」
私は、レオンの瞳を見つめた。
泣きそうで、でも嬉しそうで、必死で、優しい。
「……ねえ」
「なんだ」
私は、少しだけ勇気を出して聞いた。
「私たち、……恋人だったの?」
レオンは息を呑んだ。
次いで、笑った。泣き笑いみたいに。
「そうだ。……昨日も、一昨日も、その前の日も。君は、俺にそうしてくれた」
昨日。
私は昨日の記憶が曖昧なのに、胸の奥が温かくなる。
「……じゃあ、今日も」
私が言うと、レオンは頷き、私の手の甲にキスを落とした。
「今日も。明日も。鐘が鳴っても、俺は消えない」
窓の外で、遠い鐘が鳴った。
私はびくりと身をすくめた。
でもレオンは変わらない。目の熱は消えない。
私は息を吐いた。
そして、笑った。
「……私の名前、もう一回教えて」
レオンは少しだけ驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
「ミア。君はミアだ」
私はその名前を口の中で転がした。
不思議としっくりくる。
「レオン」
「うん」
「……初めて会った気がしないの」
レオンの目が細まる。
まるで、その言葉をずっと待っていたみたいに。
「俺もだ」
彼は私の手を握り、指を絡める。
雪の白さの中で、私の世界はようやく、誰かに決められた“破滅”じゃなくなった。
忘れても、選ぶ。
選び直せる。
――これが、私の物語の結末だ。
忘れる騎士に、私は何度でも恋をする 花火の子 @Hanabinoko
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