第2話 キスしても、朝には他人
鐘の音が消えたあと、レオンの瞳から“私”が抜け落ちた。
「ミアよ。……あなたを護衛として雇った女」
私がそう名乗った後、彼は一度だけ頷き、次の瞬間には、まるで初対面の相手を見るように距離を取った。さっきまで外套を整えてくれた指先の温度だけが、肩に残っている。
「……雇用契約は承知した。修道院までの道は危険だ。夜営地は、こちらで選ぶ」
声は丁寧で、冷静で、……優しさが“規格”になってしまったような響きだった。
それでも彼は、私の左側に立つ。敵が来やすいのは右、だから自然に私を庇う配置になる。本人は気づいていない。けれど、身体が勝手にそうする。
忘れても、守る。
その事実が、胸を締め付けた。
*
辺境守備隊の詰所に着いたのは、夜が深くなる直前だった。粗い石壁の建物で、屋根には雪が薄く積もっている。門番がレオンを見るなり緊張を解き、敬礼した。
「隊長! 戻られたのですか!」
隊長。――やっぱり彼は、ただの護衛じゃない。
私がゲームで見落としていたのか、あるいは私の行動で世界がズレたのか。
レオンは簡潔に状況を説明し、私たちを中へ通した。兵士たちの目が私に集まる。追放された令嬢。教会付きの監視がいるかもしれない女。警戒されて当然だ。
「個室を用意する。侍女も同室でいいか」
「ええ。ありがとう」
礼を言うと、レオンは一瞬だけ眉を動かした。礼を言われ慣れていないみたいに。
廊下を歩く途中、壁に小さな礼拝堂があるのが見えた。扉の上に、あの刻印に似た文様――輪を示す円と、断ち切る線。
私は足を止めた。
「ここ……教会の施設?」
「辺境では、教会の影響は強い。詰所にも最低限の礼拝堂が必要だ。……入るのか」
「少しだけ」
言いながら、私は自分の薬指を握りしめた。
怖い。でも、手がかりはここにしかない。
礼拝堂は冷えていた。蝋燭の匂いと、古い木の匂い。祭壇の奥に、金属板に刻まれた文字がある。
『魂の輪は救済。輪を断つ者は異端。異端は、輪に還れ』
還れ――戻れ。
誰の命令? 誰が誰に?
背後で、レオンが扉を閉めた音がした。彼は私の横に立ち、祭壇を見つめている。表情は読めない。ただ、目の奥が少し暗い。
「……あなたの呪い、教会が関わってる?」
問いかけると、レオンは短く息を吐いた。
「俺は……教会で“誓約”を結んだ。守るべきもののために。だがその代わりに、心が削られた」
「心が……」
「熱が残ると、命令に逆らえる。だから削る。……そういう仕組みだ」
彼は淡々と言う。痛みを感じないように、感情を遠くへ追いやって話しているみたいに。
私は決めた。
怖くても、私はここで引き返せない。
「レオン。あなたの手帳、見せて」
彼は一拍迷い、懐から革の手帳を取り出した。
私の名が書かれているページが開かれる。あの箇条書き。
・ミア(守る/近くにいると楽になる)
・教会(司教に近づくな)
・鐘(鳴ると切り替わる)
私はその文字を、指先でそっとなぞった。
「……“切り替わる”って、今みたいに?」
「ああ。鐘の音を合図に、俺は空になる。……おそらく、教会の鐘だ。祝福された音が、誓約を起動する」
だからさっき、日没の鐘で。
朝の鐘でも、きっと同じことが起きる。
私は手帳を閉じかけて、最後のページに気づいた。紙が少しだけ厚い。隠しポケットのような縫い方。そこに、小さな紙片が挟まっていた。
――引き抜くと、古い祈祷文の一部だった。
『忘却の誓約を刻まれし剣は、命令を愛と誤認する。
ただし、輪の外の魂に触れしとき、誓約は一瞬、ほどける』
輪の外の魂。
……私。
喉が鳴った。私はレオンを見上げた。
「これ、誰が書いたの」
「知らない。……俺の字じゃない」
「じゃあ、誰かがあなたを助けようとしてる」
レオンの視線が揺れた。けれどすぐに、空気を固めるように言う。
「危険だ。深追いはするな」
「するわよ」
言い返すと、レオンは目を細めた。その表情だけが、少しだけ“さっきのレオン”に近かった気がした。
*
その夜、私は詰所の小さな書庫に潜り込んだ。隊の古い記録、辺境の地誌、教会から届いた通達。埃まみれの紙束をめくるたび、指先が黒くなる。
エマは最初こそ止めたけれど、私の目が本気だと分かると、黙って湯を用意してくれた。彼女の存在だけが、私を現実に繋ぎ止める。
頁の端に、例の輪の文様がある文書を見つけた。教会の封蝋。差出人は、王都大聖堂。
『忘却誓約・運用要綱(抜粋)
対象:辺境守備隊隊長 レオン・ヴァルデ
目的:命令遂行の完全化。感情の介入を排除すること。
備考:異魂(輪の外)の接触は誓約の不安定要因。発見次第、隔離・回収せよ』
異魂。隔離。回収。
……私のことだ。
背筋が冷えた。
私は、生き延びるために追放を選んだ。なのに、追放先で“回収対象”になるなんて。
そのとき、書庫の扉がノックされた。
私は息を止める。
「……ミア。起きているか」
低い声。レオン。
私は急いで書類を隠し、扉を開けた。
そこに立っていたのは、さっきまでの“空っぽのレオン”ではなかった。瞳に熱がある。呼吸が少し荒く、外套の襟元が乱れている。まるで遠い場所から走って戻ってきたみたいに。
「……どうしたの?」
レオンは答えず、私の手首を掴んだ。痛くないのに、離す気配がない。
「君が……遠いと息ができない」
心臓が跳ねた。
同じ言葉が、手帳にあった。“近くにいると楽になる”。
「……戻ったのね。レオン」
「戻った? ……そうか。俺はまた、切り替わっていたのか」
彼は苦笑した。自嘲ではなく、悔しさに近い。
「俺は毎回、君に会い直している。……なのに、会うたびに、同じ顔をしてしまう」
「同じ顔?」
私が首を傾げると、レオンは私の頬に指先を近づけ、……触れずに止めた。
「触れたい顔だ」
言葉が、熱い。
私は、怖かった。次の鐘で、次の朝で、この人はまた空になる。いまの言葉も、いまの視線も、全部“無かったこと”になる。
それなのに。
「……レオン。私、教会の文書を見つけた」
「見せろ」
私は要綱の抜粋を差し出した。レオンは読んで、目を細めた。怒りが、静かに立ち上がる。
「回収……か。やはり司教は」
「司教?」
レオンは一瞬、言い淀んだ。それでも、私にだけは隠さないと決めたように言う。
「王都から来る司教がいる。辺境の信徒を束ねる男だ。俺の誓約に関わった」
私は息を呑んだ。黒幕の影が、輪郭を持ち始める。
「……じゃあ、私が狙われる」
「狙われる。だから――」
レオンは言いかけて、唇を噛んだ。何かを言うのが怖い顔。言った瞬間に、それが奪われると知っている顔。
「だから、離れる?」
私が先に言うと、レオンは首を振った。
「違う。離したくない。……だが、明日になれば俺は君を他人として見る」
その言い方が、胸を刺した。
他人。
私は、彼にとって何者にもなれないの?
私は、笑ってしまいそうになった。泣く代わりに。
「だったら、明日になる前に」
言いながら、私は自分の薬指を見せた。白い輪の痕。彼のそれと、薄く共鳴するように熱を持つ。
「触れてみて。……“輪の外”の証拠よ」
レオンはためらった。
けれど次の瞬間、彼の指が私の薬指に触れた。
ちり、と熱が走り、視界が一瞬だけ白くなる。
耳の奥で、遠い鐘の残響が反転するみたいに歪んだ。
レオンの瞳が揺れ、――驚いたように私を見つめた。
「……君は」
言いかけた声が震えている。
「何?」
「……分からない。だが、君を失う未来だけが、はっきり見える」
その言葉に、私は耐えられなくなった。
私は、レオンの襟元を掴んで引き寄せた。
そして、自分から唇を重ねた。
最初は軽く触れるだけのつもりだった。
でもレオンが息を呑み、次の瞬間には私の背を抱き寄せ、深く、確かめるように返してきた。
熱い。
怖い。
嬉しい。
唇が離れたとき、私は息を乱しながら笑った。
「……これで、明日忘れても。“今日”は本物よ」
レオンは私の額に自分の額を当て、低く笑った。
「忘れても、身体は覚える。……それだけでいい」
私は首を振った。
「よくない。あなたの呪いを解く。私の命も守る。……そのために、明日もあなたに会い直す」
レオンは一瞬だけ目を閉じ、懐から手帳を取り出した。震える指でページを開き、太い字で書く。
『今日の俺は、ミアを選ぶ。
鐘が鳴って空になっても、命令より先にこの文を読め』
彼は書き終えると、手帳を私に差し出した。
「君が持て。俺は……明日、これを奪うかもしれない」
「奪わせない」
私は手帳を抱えた。宝物みたいに。
*
そして朝が来た。
詰所の鐘が鳴る。澄んだ音。祝福された音。
音が空気を割った瞬間、私は息を止めた。
寝台の軋む音がして、レオンが起き上がる気配。私は隣室の扉越しに聞いている。わざと顔を合わせない。
……怖いから。
扉が叩かれた。
「伯爵令嬢ミア。準備はできたか」
声が、昨日の夜とは違う。丁寧で、遠い。
やっぱり。やっぱり、忘れてる。
私は扉を開け、笑った。
何度でも、最初から。
「おはよう、レオン。私はミア。あなたを護衛として雇った女よ」
レオンは一瞬だけ眉を寄せ、私の顔を見つめた。知らないはずなのに、目が離せないみたいに。
その視線だけが、私を救う。
「……承知した。道中は危険だ。こちらへ」
彼は手を差し出す。昨日と同じ動き。昨日と同じ位置。
忘れても、守る配置。
そのとき、詰所の門が開く音がした。
馬の蹄、鎧の擦れる音。
空気が一気に張り詰める。
「レオン・ヴァルデ隊長」
低く、滑らかな声が響いた。
門の向こうに、白い外套の一団がいた。教会の騎士と、先頭に立つ男――銀の杖。薄い笑み。
司教。
彼の視線が私の薬指に落ち、ゆっくりと上がって私の目を捉える。
「ようやく見つけました。輪の外から来た魂」
血が引く。
言葉が出ない。
司教は穏やかに微笑んだまま、レオンに杖を向けた。
「誓約に従いなさい。――その女を拘束し、こちらへ」
瞬間、レオンの身体が硬直した。
瞳から色が抜ける。私を映しているのに、私がいない目。
私は一歩下がった。
レオンが、こちらへ歩いてくる。
「レオン……!」
呼んでも、届かない。
彼の手が私の手首を掴む。昨日と同じ場所。昨日と違う力。冷たい拘束。
司教が優しく言った。
「抵抗しないで。あなたは、還るのです。輪の外へ」
レオンが私の背に腕を回し、縄を取り出す。
私は震えながら、彼の胸元を見た。
――そこに、あの手帳がない。
私が持っている。
私が、渡せば。
読ませれば。
でも、今のレオンは命令に従う。手帳を読ませる隙がない。
私は息を呑み、司教を睨んだ。
絶対に、渡さない。
絶対に、還らない。
私の手首が、縄で締め上げられる寸前だった。
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