忘れる騎士に、私は何度でも恋をする
花火の子
第1話 追放された悪役令嬢と、忘れる騎士
追放は、私の望みどおりだった。
――正確に言えば、“死なないために自分で選んだ追放”だ。
私はミア・アルトネ。名門伯爵家の令嬢で、乙女ゲーム『聖花の誓い』ではヒロインを追い詰める悪役令嬢。断罪され、追放され、最後は辺境で“事故”を装って消される未来を、私は知っている。
転生したと気づいたのは、十六の春。学園の図書室でヒロインが落とした白百合の栞を拾った瞬間、ゲームの画面と音楽が頭に流れ込み、私は息ができなくなった。
だから私は準備した。
断罪の壇上に立つ前に、破滅ルートの分岐を変える。
王太子から離れ、教会に目をつけられない形で王都を出る。
断罪よりも先に、自分から婚約を解消すればいい。
それも、相手が私を憎み切れない形で。
「ミア・アルトネ。貴様は、聖女候補であるリリィを度重なる侮辱と虚偽の告発により――」
謁見の間。大理石の床に映る光が、妙に冷たい。王太子エドワードは玉座の隣で背筋を正し、目だけが疲れたように沈んでいた。リリィは白いドレスをまとい、泣きそうな顔で俯いている。
ゲーム通りなら、ここで私は泣き叫び、見苦しく言い訳をし、最後には護衛騎士に引きずられていく。
そしてその後、待っているのは“死”。
私は両手を揃え、一歩前に出た。
視線が集まる。好奇と嫌悪と期待。
私は微笑み、王太子を見据えた。
「婚約は解消してください」
言葉が落ちた瞬間、ざわめきが波のように広がった。王太子の目がわずかに見開かれ、次いで、戸惑いがそこに浮かぶ。――よし。彼に“断罪の快感”を与えない。
「私には、王太子妃の器がありません。リリィ様を傷つけたことも事実です。……ならば、これ以上皆さまのお目を汚す前に身を引くのが最善です」
王太子の指が震え、拳を握り直した。彼は私を断罪する役で、同時に、私の破滅を決定づけるスイッチでもある。ここで彼が「追放」を選べば、命はつながる。
「……伯爵令嬢ミア・アルトネ。貴殿の婚約は、本日をもって解消する」
肩の奥の硬い石がひとつ崩れ落ちた気がした。息を吐く。
しかし、まだ終わりではない。
私は視線を、奥に控える司教へ向けた。銀の杖を携えた男は、薄く滑らかな笑みを浮かべている。魂の輪を管理する教会――ゲームでは、王家すら操る黒幕候補だった。
司教の唇がわずかに動く。
「悔い改めの機会が必要でしょう。彼女を……辺境の修道院へ」
温情の形をした追放。都から遠ざけ、監視下に置く。
私は頭を下げた。
「承ります」
こうして私は、王都を追われた。
*
馬車は冬の匂いがする道を走った。窓から見える景色は、次第に石造りの屋敷から、畑と森へ変わっていく。護送役の兵士が二人。御者と、私の侍女だったエマ――彼女は最後までついてきてくれると言い張った。
「お嬢様……本当に、これでよかったのでしょうか」
「よかったのよ。少なくとも、今は生きている」
口にすると妙に現実味があった。生きている。たったそれだけが、今の私の勝利だ。
私は指先を見た。薬指に、うっすらと輪の痕。指輪の跡のような白い線が、幼いころから消えない。魂の輪に刻まれた“結び目”の印――普通は見えないはずのものが、私には見える。
馬車が、がくんと揺れた。
車輪が泥にはまり、前に進まなくなる。森が近い。木々が風を止め、音が吸い込まれていく。嫌な静けさ。
次の瞬間、枝が折れる音がした。低く、複数。獣ではない。人の足音だ。
「――伏せて!」
扉が乱暴に開かれ、覆面の男が短剣を突き出した。
「おとなしく――」
男の言葉は途中で止まった。
空気が裂ける音。金属が肉を断つ鈍い響き。男が目を見開いたまま崩れ落ちる。
扉の向こうに、黒い外套が揺れていた。
夜色の外套。灰色の髪。冷たい空のような青い目。剣の刃から血が一滴落ち、土に吸われる。
森の陰から別の襲撃者が飛び出す。男は迷いなく踏み込み、流れるように斬った。数合で終わる。
静寂が戻る。
血の匂いだけが濃くなる。
男は剣を下ろし、私に向き直った。眉がわずかに寄る。怒りではない。困惑に近い表情だ。
「……何で、ここにいる」
「あなたは……誰?」
「レオン。辺境守備隊の……騎士だ」
辺境守備隊。追放ルートの途中に出てくる“救済役”。ただし、彼は本来ヒロインのルートでしか出てこないはずだった。なぜ、ここに?
レオンは、私を見つめたまま息を吐いた。
そして、信じられない言葉を口にした。
「……やっと見つけた。ミア」
背筋が冷たくなった。
今、私は名を名乗っていない。
「……どうして、私の名前を」
問いかけたのに、レオンはそのまま固まった。まるで自分が何を言ったのか分からないように。次いで、彼はこめかみを押さえた。
「……すまない。……口が勝手に」
その言い方が、妙に真実味を帯びていた。自分の意志ではなく、何かに引き出された言葉。
私は、彼の左手を見た。
手袋の隙間から、白い輪の痕が覗いている。私の薬指の痕より深い。まるで焼き印のように結び目が刻まれていた。
魂の輪。
教会の呪い。
「あなた……呪いをかけられてる」
レオンの目がわずかに揺れた。
「見えるのか」
「……うっすらと。私にも、同じ痕があるから」
私は自分の薬指を見せた。レオンはそれを見て、苦しそうに目を伏せた。
「……やはり、君か」
森の奥で、遠くに狼の遠吠えがした。馬車も動かない。ここで立ち止まれば、次の襲撃は防げない。
私は決めた。状況は危険だが、この男は――私の破滅を変える鍵になる。
「レオン。私を、辺境の修道院まで護衛して」
兵士が口を挟みかけたが、私は視線で黙らせた。私が死ねば彼らも困る。
レオンは一瞬目を見開き、やがて苦笑のように片方の口角を上げた。
「俺に護衛を頼むのか。君は……俺を信用していいのか」
「信用はしない。でも、必要だから頼む」
言い切ると、レオンは小さく息を吐き、頷いた。
「……分かった。だが条件がある。俺の呪いを……解く手がかりを探してほしい」
危険だ。教会に近づけば、私は“台本”に引き戻されるかもしれない。
それでも、彼の瞳の底に沈む諦めが、私の決心を固めた。
「いいわ」
レオンの目が僅かに揺れた。
「ただし、私にも条件がある」
「言え」
「私を、教会から守って。――私が狙われたら」
レオンは迷いなく頷いた。
「守る」
短く、強い言葉だった。胸が温かくなる。
彼は外套の留め具を外し、自分の外套を私の肩にかけた。血と鉄の匂いがするのに、不思議と嫌ではなかった。
「行こう。ここは危ない」
森を抜けるまで、レオンは一度も背を向けなかった。兵士たちに短く指示を飛ばし、馬車を動かせる者だけを残して、残りは街道へ先行させる。指揮に迷いがない。辺境守備隊の肩書きは伊達じゃないらしい。
街道に出ると、風が少しだけ強くなった。木々に吸われていた音が戻り、遠くの荷馬車の軋む音や、鳥の鳴き声が聞こえる。それだけで、さっきまでの死の気配が薄れる。
「……呪いって、具体的には?」
私が問うと、レオンは歩幅を落とさずに答えた。
「俺は、夜のうちに得た感情を朝に失う。……いや、正確には“心が空になる”。好きも嫌いも、熱も痛みも、薄い紙みたいに剥がれていく」
「記憶は?」
「残ることもある。だが、感情が伴わない。……大事なはずの名前が、ただの文字列になる」
淡々とした口調なのに、言葉の端が少しだけ硬い。言い慣れているのに、慣れたくない痛み。
「それで……私の名前を呼んだのに、理由が分からない」
「ああ。たぶん、呪いの“穴”だ。時々、俺の中の何かが勝手に口を動かす」
レオンは懐から小さな革の手帳を取り出し、ぱらりと開いた。走り書きの文字がびっしり並んでいる。最初の頁には、太い字でこうあった。
『忘れる。だから書く。命令には従うな』
次の頁には、今日の日付と、短い箇条書き。
・ミア(守る/近くにいると楽になる)
・教会(司教に近づくな)
・鐘(鳴ると切り替わる)
私は喉がからからになるのを感じた。私の名が、もう書かれている。しかも――“近くにいると楽になる”。
「……いつ書いたの」
「分からない。気づいたら、こうなっていることがある」
彼は手帳を閉じ、胸に戻した。言葉よりも先に、身体が必要なことだけを残しているのかもしれない。
風が強まり、エマがくしゃみをした。私は肩をすくめる。レオンが無言で立ち止まり、外套の前をもう一度整えてくれた。指先が私の頬に触れそうで、ぎりぎりで止まる。
「……冷えてる」
低い声。私の指先も冷たい。彼は自分の手袋を片方外し、私の手に被せた。大きすぎる革の匂い。触れた瞬間、薬指の輪の痕が、ちり、と熱を持った。
レオンも同じように微かに息を呑んだ。ほんの刹那、彼の目が揺れて――懐かしむように細まる。
「……懐かしい」
そう呟いたのに、次の瞬間には自分で首を振った。
「いや、違う。……すまない」
「謝らないで。私だって、理由は分からない」
でも、胸の奥が変に痛い。理由の分からない“懐かしい”が、恋の入口みたいで。
やがて小さな祠が見えた。街道脇の石造りで、苔むした扉に古い刻印がある。私は吸い寄せられるように近づき、刻まれた文を指でなぞった。
『輪を断つ者は、輪に縛られぬ。されど、代償を払う』
背中に冷たい汗が走る。転生者。輪の外側。私のことを言っているみたいだった。
「読めるのか」
レオンが覗き込む。彼の肩が近い。私は頷いた。
「……たぶん、これが手がかりになる。教会は、私を“異物”として見てた。だからこそ……私なら、呪いに触れられるかもしれない」
言ってしまってから、危険を自覚した。触れれば、教会が本気で私を狩る。
それでも私は、レオンの手帳の一行を思い出す。“近くにいると楽になる”。
私は生きるために動く。
そして――なぜか、この男を見捨てたくない。
レオンは私をまっすぐ見た。
「なら、なおさら離れるな。俺が守る」
その声が、胸に落ちて、温度になる。
――追放で終わるはずがない。
教会は必ず、私を追ってくる。
ふと、背後からレオンの声がした。
「……ミア」
私は振り向いた。
レオンは眉を寄せ、困ったように、しかし確かめるように私を見つめている。
「君の名前を、さっき俺は呼んだ。……どうして知っている?」
私は息を整え、静かに言った。
「それを一緒に探すの。――あなたの呪いと、私の生き方の答えを」
レオンは、ほんのわずかに笑った気がした。
「……ああ」
その瞬間、遠くで鐘の音が鳴った。辺境の礼拝堂の鐘。日没を告げる音。
レオンが、ぴくりと肩を震わせた。
「……来る」
「何が?」
問い返すより先に、レオンは私の手首を掴んだ。強い力ではない。だが、離さないという意志だけが伝わる。
「……日が沈むと、俺は……」
言いかけた言葉が途切れる。彼の目が一瞬だけ虚ろになり、次いで、ひどく痛むものを見るように細められた。
そして、レオンは私を見て、ゆっくりと言った。
「……初めまして。……君は、誰だ」
外套の重みが、急に寒さへ変わった。
私の名を呼んだ男が、今、私を知らない目で見ている。
忘却の呪い。
夜明けではなく、鐘の音で切り替わる――そんなルールがあるのかもしれない。
私は口の中で唾を飲み込み、笑った。悪役令嬢の仮面ではなく、ただの“生きたい女”として。
「ミアよ。……あなたを護衛として雇った女」
レオンは眉を寄せ、しかしその手は私の手首を離さなかった。
握り方だけが、さっきと同じだった。
――大丈夫。
たとえ彼が忘れても、私は積み上げる。
何度でも、何度でも。
私たちは、辺境へ向けて歩き出した。
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