第4話「脳の居場所」

 四億九千九百九十九万九千九百九十九年。  終わりは、唐突に、そしてあまりにも静かに訪れた。


『……五億年が経過しました。これより、全記憶の消去および、現実世界への転送を行います』


 アナウンスの声には、もはや当初の尊大さはなかった。  そこにあるのは、理解不能なバグをようやく排出し終える、機械的な安堵感だけだった。


「……ようやくか」


 俺は立ち上がった。  五億年前と同じ、冴えないフリーターの肉体。だが、その内側は変質していた。  一兆を超える細胞のひとつひとつに、俺は五億年かけて「一撃の型」を叩き込み、神経の末端にまで「あの男の殺害」という命令を、物理的な傷跡として焼き付けた。


 脳が忘れようとも、この右手が、この足が、俺の意志を超えてあいつを屠る。    視界が、真っ白に染まる。    ――カチリ。    耳に届いたのは、あの安っぽいプラスチックのボタンの音。  鼻を突くのは、排気ガスと湿った夜風の匂い。   「……え? あ、あれ?」


 俺は、呆然と立ち尽くしていた。  目の前には、三日月のような笑みを浮かべたスーツの男。  足元には、本物の万札が詰まったアタッシュケース。


「おめでとうございます。約束通り、百万円です。……どうです? 記憶が消えるなら、本当に一瞬だったでしょう?」


 男が、愉快そうに肩を揺らして笑う。  俺の頭の中は真っ白だった。  さっきまでパチンコに負けて、死ぬほど絶望していたはずだ。それが、ボタンを押した次の瞬間、目の前に大金がある。


「……す、すげえ。本当に一瞬だ。夢、見てたのかな……」


 俺は歓喜に震え、アタッシュケースに手を伸ばそうとした。だが、俺の意識が「嬉しい」と反応したその瞬間、俺の右腕(からだ)が、俺の意志を完全に無視して動いた。


「……がっ!?」


 男の喉笛に、俺の手刀が突き刺さっていた。    脳に記憶はない。  感情に殺意もない。  なのに、五億年かけて研ぎ澄まされた俺の右腕は、呼吸をするよりも自然に、この世で最も効率的な「致死の速度」を再現していた。


「な……な……にを……」


 男が、驚愕に目を見開く。

 俺は、自分の右腕を必死に左手で押さえつけた。だが、止まらない。細胞が、歓喜していた。  五億年。この瞬間のためだけに、俺たちは存在し続けたのだと、全身の筋肉が叫んでいた。


【結末:一秒の残響、五億年の勝利】

「……え? あ、足が……手が……勝手に!」


 俺は叫んだ。だが、口から出た言葉とは裏腹に、右足が冷徹な正確さで男の膝を粉砕した。  男は悲鳴すら上げられず、石畳に崩れ落ちる。


「……ま、待て……! 記憶は……消したはず……っ!」


 男の顔から余裕が消え、人外の恐怖が張り付く。男は懐から「別のボタン」を取り出そうとしたが、俺の指先がそれより速く、男の眼球の数ミリ前で止まった。


 ――いや、止まったんじゃない。  五億年かけて研ぎ澄まされた俺の細胞が、「ここを突けば、この怪物は即座に霧散する」という正解を叩き出していた。


「な、なあ、あんた誰だよ! 俺の体になんかしたのか!?」


 俺は半泣きで、勝手に動く自分の右手を必死に引き剥がそうとする。  脳には記憶がない。だから俺は、自分がなぜこの男を殺そうとしているのか、その理由すらわからない。  ただ、心の奥底で、一兆の細胞たちが、パチンコ屋の喧騒を上書きするような大歓声(オーケストラ)を上げているのを感じていた。


「ひ……ひぃぃぃっ!」


 男は腰を抜かし、這いつくばって闇の中へ逃げていった。  あのアタッシュケース、100万円の束を投げ出したままで。


 男の姿が消えると、ようやく俺の腕の力が抜けた。   「……な、なんだよ。わけわかんねえ……」


 深夜の換金所裏。静寂が戻る。  俺の足元には、夢にまで見た100万円。  記憶はない。たった一秒。俺にとっては「一瞬」で手に入れた大金。


「……でも、まあ。結果オーライ、か」


 俺は震える手でアタッシュケースを拾い上げた。  これで家賃も払える。またパチンコも打てる。最高の気分のはずだった。


 だが、ケースを握ったその瞬間。  脳が知らない「懐かしさ」で、俺の目から涙が溢れ出した。


 そして、ふと夜空を見上げた時、俺は得体の知れない違和感に襲われる。   「……星って、あんなに動くのが早かったっけ?」


 俺の脳は、まだ五億年の加速の中にいた。

 目の前を通り過ぎる車のライトが、止まって見える。  街路樹を揺らす風の音が、ゆっくりとした旋律に聞こえる。


 記憶は消去されても、研ぎ澄まされた「時間感覚」だけは、この世界を拒絶していた。

 俺は100万円を抱え、パチンコ屋の眩しい光の中へ戻っていく。  だが、俺の細胞はもう、一分一秒の重みに耐えられなくなっていた。

 俺にとって、現実の一秒は、あまりにも長すぎて、あまりにも退屈すぎる――。    俺の口元が、自分でも気づかないうちに、五億年前の「怪物」と同じ形に歪んだ。


「……おい。残り、何分だ?」


 誰にともなく呟いたその言葉に、夜風だけが静かに答えた。


(完)

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5億年ボタンを押した男の末路 @pajiru

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