第3話「もう一人の俺」
そう決めてからの俺の加速は、自分でも恐ろしいほどだった。 この世界には何もない。だからこそ、俺の脳は唯一の「娯楽」として、自分自身の肉体を徹底的に解析し始めた。
一万年が過ぎた頃。 俺の正拳突きは、もはや「突き」という動作ですらなくなっていた。 パチンコ屋を出た時の、あの冴えないフリーターの腕。筋肉の量も太さも変わっていないはずなのに、脳が筋肉の一本一本に送る「信号」の強度が変わった。 無駄を削ぎ落とす。
関節の遊びをなくし、骨格の全てを一瞬で一本の槍にする。
かつては「ヨイショ」と意識して動かしていた腕が、今では「打つ」と思った瞬間に、そこにある。
十万年が過ぎた頃。
俺はついに「自分という個体」の限界に突き当たった。 格闘の型など、数万年もあれば全て試し尽くしてしまう。 そこからは、さらなる深淵への潜行だった。
「……なぁ、一分間に一回しか喋らないのかよ。もっとマシな娯楽をくれよ」
虚空に向かって呟くが、アナウンスは淡々と『一分が経過しました』を繰り返すだけだ。 俺は、さらなる「可能性」を探し始めた。
もし肉体が変化しないのなら、「感覚」を拡張すればいい。 俺は目を閉じた。 何万年も暗闇の中で過ごす練習をすると、面白いことが起きた。 光のないはずのまぶたの裏に、自分自身の血流の音が「波」として視覚化され、血管を流れる赤血球が一つずつ、衝突する振動さえも感じ取れるようになった。
次に俺は「耳」を研ぎ澄ませた。 この何もない世界。だが、一秒に数万回という精度で聴覚を集中させると、そこには微かな「音」が存在した。 空間自体が発する、極低周波のうなり。 あるいは、俺の思考が脳細胞を駆け巡る時に発する、微弱な電気火花の音。
「……あはは。聞こえる、聞こえるぞ」
俺は笑った。 俺はもう、ただの格闘家を目指しているわけじゃなかった。 自分の心臓の鼓動を、任意で「一拍」だけ遅らせる。 視神経の感度を上げ、虚空に漂うナノ単位の塵を「弾丸」のように捉える。 五億年という時間は、一人の人間を「神」にするには長すぎるが、「バグ」にするには十分すぎる時間だった。
さらに二十万年が過ぎた時。 俺はついに、「もう一人の俺」を作り出すことに成功した。 脳内での対話じゃない。あまりに研ぎ澄まされた俺の意識が、この純白の何もない空間に「俺がここにいるという残像」を強烈に焼き付け、あたかもそこに実体があるかのように錯覚させ始めたのだ。
「よお、俺。……次はどっちが先に、音を置き去りにできるか勝負しようぜ」
俺は、俺自身に向かって構えを取った。 相手は自分だ。手の内は全てわかっている。 五億年の内の、まだ一パーセントも終わっていない。
だが、俺の顔には、かつてパチンコ屋で絶望していた男の影は微塵もなかった。
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