第2話「可能性の芽」

 どれくらい叫び、どれくらい泣いただろうか。  一分刻みのカウントダウンに気が狂いそうになった俺は、あることを思いついた。


「……そうだ。暇なら、体を鍛えればいい」


 もし5億年後に、鋼のような肉体を持ってシャバに戻れたら。100万円以上の価値があるかもしれない。  俺は「純白の床」に手をつき、腕立て伏せを始めた。


 一回、二回、三回……。  パチンコ屋の椅子に座り続けてなまった体には、十回目ですでに重みを感じる。だが、俺は止めなかった。百回、二百回、千回。    だが、おかしい。  数時間が経過し、数万回の腕立てを終えたはずなのに、息が全く切れない。  それどころか、筋肉が熱を持つ感覚も、あの独特の「筋肉痛」の前兆も一切ないのだ。


「……おい、どうなってんだよ。一万回は動かしたぞ」


 俺は自分の腕を触ってみた。  弾力も、太さも、あのパチンコ屋を出た時の、冴えないフリーターの細い腕のままだ。   『三時間が経過しました。この空間では、生体活動による肉体の摩耗・変質は一切行われません。筋繊維の断裂および超回復は発生しません。残り――』


「ふざけんな!」


 俺は立ち上がり、虚空に向かって吠えた。  つまり、いくら努力しても、一ミリも成長できないということだ。  5億年かけても、俺はこの貧弱な体のまま、ただ「意識」だけが永遠に新鮮な地獄を味わい続ける。


 腹も減らない、死ぬこともできない。  そして、成長(変化)することすら許されない。


 俺はヤケクソになって、今度は腹筋を始めた。  変化がないと分かっていても、何かをしていないと、自分という存在がこの白い景色に溶けて消えてしまいそうだったからだ。


 一万回、十万回、百万回。  回数を数えることだけが、俺に残された唯一の「数字」との接点だった。


『一週間が経過しました。総運動量、腕立て五万回、腹筋二十万回を記録』

 アナウンスの声が、俺の「無意味な努力」を嘲笑うように、天から降り注いだ。


 だがここで一つの可能性を見つけた。

 もし肉体に一切の変化は起こらなかったとしても思考は、考えることはいくらでもできる。

 5億年だ。5億年もあればもし記憶が消えてしまうとしても、なにか爪痕を残すぐらいのことはできるかもしれない。


 記憶は消える。  だが、あのアナウンスは言ったはずだ。「肉体の老化も、あちらでの記憶も消去される」と。  ……じゃあ、技術」や「魂に染み付いた癖」はどうだ?


 例えば、自転車の乗り方を一度覚えたら、何年も乗っていなくても体が覚えているように。  

 記憶がリセットされたとしても、五億年繰り返した「動き」の残響まで、完璧に消し去ることはできるのか?


「……試してやるよ。全部無駄だなんて言わせねえ」


 俺は、パチンコ屋で男に詰め寄った時の、あの無様に震えていた自分の右手をじっと見つめた。

 俺は、拳を握った。


 筋トレで筋肉がつかないなら、「脳から筋肉への伝達」を極限まで研ぎ澄ませてやる。一ミリの狂いもない正拳突き。  一寸の無駄もない足運び。

 一万年かけて、世界中の格闘家の動きを脳内でシミュレートし、それを自分の「変わらない肉体」に無理やり叩き込む。

 十万年かけて、目をつぶっていても虚空の原子を掴めるほどに感覚を鋭くする。


 もし現実に戻った時、記憶が真っさらになっていても、隣にいるあの『ボタンの男』の喉笛を、俺の右手が勝手に「最速」で貫くように。


「……一、二、一、二……」


 俺は「無」を相手に、格闘の基本動作を開始した。  音がしない世界で、俺の拳だけが風を切る感覚。   『一ヶ月が経過しました。心拍数、体温、共に変動なし。あなたが今行っている動作の有効性は――』


「うるせえ。数えてろよ、あと何発打てるか」


 俺はニヤリと笑った。  思考は加速する。  格闘技、ギャンブルの駆け引き、完璧な嘘のつき方。

 五億年後、俺は「記憶を失った、史上最強の素人」として、あのパチンコ屋の前に立ってやる。

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