第二十一話:百花の奥の深淵
第二十一話:百花の奥の深淵
執筆:町田 由美
その日は、隆中の空が白く霞み、沈丁花の香りが重く立ち込める午後だった。
水鏡先生の紹介で訪れた黄月英殿。彼女が去り際に残していったあの一枚の図面――木牛の端緒となる複雑な連動機構の写し――が、私の机の上で静かに「問い」を発し続けていた。
「兄様、またその紙を見ているの? 珍しいね、書物以外にそんなに熱心になるなんて」
均(きん)が私の背後から覗き込む。私は答えなかった。
この図面には、私が知る「学問」とは別の、理(ことわり)の形があった。
数日後、私は意を決し、彼女の父である黄承彦(こうしょうげん)殿の屋敷を訪ねることにした。
襄陽の喧騒から離れた、深い森の奥。そこにある黄家の屋敷は、家主の風変わりな性格を反映するように、生い茂る木々に半分埋もれるようにして建っていた。
「……入りなさい、諸葛孔明殿。娘は奥の工房にいる」
出迎えた黄承彦殿の瞳には、私の底を見透かすような、悪戯っぽくも鋭い光があった。
私が通された場所は、洗練された襄陽の書斎とは程遠い、火と鉄と木の匂いが入り混じる「戦場」のような空間だった。
「……孔明様。あの日渡した図面、理解できましたか?」
煤で少し汚れた袖を捲り、大きな旋盤のような機械に向かっていた月英殿が、振り返らずに問うた。
彼女の周囲には、未完成の木の鳥、水の流れで規則正しく動く小さな模型、そして見たこともない複雑な結び目を持つ糸が散乱していた。
「理解、という言葉は正しくないかもしれません。……圧倒された、と言うべきでしょう」
私は彼女の隣に立ち、製作途中の木の歯車を見つめた。
「私はこれまで、天下を『理』で動かそうとしていました。……ですが、月英殿。あなたの手元にあるのは、理を『実(じつ)』に変える力だ。……この歯車の一つひとつが噛み合うように、人の世もまた、目に見える仕組みによって救われるべきではないか。そう教えられた気がするのです」
月英殿は初めて作業の手を止め、私の方を向いた。
彼女の顔には、世間で噂されるような「醜さ」など微塵もなかった。
ただ、あまりにも強すぎる知性が、常人の理解を拒むような、峻厳な美しさを湛えていた。
「孔明様。あなたの言う『法』は、あまりにも高潔すぎて、この泥だらけの大地には重すぎる。……だから、私が『滑車』を作って差し上げたいのです」
彼女の細い指が、図面の一点を指す。
「どんなに重い責任も、滑車を通せば一人の人間が持ち上げられる重さになる。……どんなに冷徹な法も、器械という『便利』を通せば、民は喜びとしてそれを受け入れる。……知恵とは、人を支配するためではなく、人の苦痛を『逃がす』ためにあるべきだとは思いませんか?」
その瞬間、私の脳裏で、これまでの孤独な読書で積み上げてきた知識が、音を立てて組み変わった。
叔父上の死、徐州の飢餓、友人たちの虚無。
それらすべてを解決するためのミッシングリンクが、目の前の少女の放つ一言の中にあった。
私は、自分の掌が熱くなるのを感じた。
それは、怒りでも焦燥でもない。
この世界に、自分と同じ「言葉」を話す人間が、もう一人いたのだという、魂の震えだった。
「……月英殿。……明日も、ここへ来てよろしいでしょうか」
「ええ。……ですが、ここには論語を講じる暇はありませんよ。……明日までに、この歯車の摩擦を殺す方法を、私と一緒に考えていただきます」
月英殿は、少しだけ、本当に少しだけ、不敵に笑った。
隆中の森に、夕闇が降りてくる。
帰り道、私の足取りは、いつになく軽やかだった。
青年・孔明。二十四歳。
彼はこの日、生涯の伴侶となる一人の女性の中に、自分が成すべき「天下三分の計」の、最も重要な、そして最も温かな土台を見出した。
二人の「共鳴」は、まだ始まったばかり。
それは、歴史の表舞台には決して記録されない、しかし世界の運命を決定づける、密やかな革命の萌芽だった。
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