第二十二話:静謐なる火花
第二十二話:静謐なる火花
執筆:町田 由美
木々の葉が風に戦ぐ音だけが、黄家の工房に流れ込んでいた。
あの日以来、私は一日の大半を、月英殿の傍らで過ごすようになっていた。
だが、そこには世俗の男女が交わすような甘い言葉はない。ただ、机の上に広げられた古い地図と、彼女が書き連ねた計算の木簡、そして、まだ見ぬ理想の国を構築するための、乾いた言葉の応酬があるだけだった。
「……孔明様。今日は、手が止まっていますね」
月英殿が、炭で汚れた細い指を拭い、私を横目で見た。
私は、地図の上の一点――後に「蜀」と呼ばれることになる、険峻な山々に囲まれた益州の地を指でなぞっていた。
「月英殿。……知恵が深まれば深まるほど、私は自分が恐ろしくなるのです」
私は、筆を置いて椅子に深く背を預けた。
「あなたが教えてくれた『理を具体に変える力』。……それを使って、私はいつか、数万人を動かすことになる。……その時、私の引く一本の線、私が生み出す一つの仕組みが、どれほど多くの血を流し、どれほど多くの涙を乾かせるのか。……その重さを考えると、時折、息ができなくなる」
月英殿は、作業の手を完全に止め、私と正面から向き合った。
彼女の瞳は、昼間の陽光を反射して、深い森の奥にある泉のように静まり返っている。
「……孔明様。あなたは、自分が『全き正解』を導き出せると信じているのですか?」
「……いいえ。そんな傲慢なことは」
「ならば、恐れる必要はありません。……私たちは、不完全な人間です。……私たちが作る仕組みも、あなたが敷く法も、いつかは綻び、土に還るでしょう。……ですが、今この瞬間、泥の中で喘いでいる民に『明日への期待』を抱かせること。……それだけは、私たちにしかできないことです」
彼女は、机の端に置かれた、錆びた古い針を拾い上げた。
「この針一本を作るのにも、火を焚き、鉄を叩き、多くの手間がかかっています。……無駄なことは何一つありません。……あなたが流す血を恐れるのであれば、その血に見合うだけの『安らぎ』を、仕組みの中に組み込めばよいのです。……私がお手伝いします」
その言葉は、私の胸に溜まっていた重い澱を、さらさらと洗い流していくようだった。
月英殿は、私の孤独な「理」に、血を通わせてくれる人。
私の「冷徹」という欠落した部分を、彼女の「温かな実学」が埋めてくれる。
「……月英殿。私は、あなたと出会うまで、一人で星になろうとしていました」
「星ですか?」
「ええ。……誰の手も届かぬ場所から、ただ正しく世を照らすだけの存在に。……ですが、今は違います」
私は、彼女の手元にある、無数の計算が書かれた木簡を指した。
「私は、地を這う火になりたい。……あなたの知恵を薪とし、民の心を温める火に。……そして、いつか燃え尽きるその時まで、あなたの隣で、この不条理な世を焼き尽くしたいのです」
月英殿の顔が、僅かに赤らんだように見えた。
それは恋情というよりも、同じ志を持つ戦友としての、深い共鳴の証だった。
「……火、ですか。……ならば、私は風になりましょう。……あなたの火が消えぬよう、どこまでもその熱を運ぶ風に」
窓の外では、隆中の竹林が大きくしなり、風が吹き抜けていった。
二人の知性が、一つの「目的」に向かって完全に融合した瞬間。
しかし、その美しい静寂を、均の慌ただしい足音が破った。
「兄様! 大変だ! ……襄陽の街で、劉表様が病に倒れられた。……そして、北から曹操の斥候が、このすぐ近くまで来ているという噂だ!」
時代の歯車が、急激に回転を上げた。
私たちがここで語り合っていた「理想」が、冷酷な「戦争」という現実によって、試されようとしていた。
青年・孔明。二十五歳。
彼が守り続けてきた静かな思索の季節が、今、幕を閉じようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます