第二十話:虚妄の座
第二十話:虚妄の座
執筆:町田 由美
月英殿が去った後の廬(いおり)には、再び竹林を抜ける風の音だけが残された。
庭の隅に置かれた、未完成の木の歯車。それは確かに未来の希望を形にしていたが、私の目の前にある現実は、依然として暗澹たる泥の中に沈んでいた。
「――結局、我々はここで何を待っているのだ、孔明」
石広元(せきこうげん)が、冷え切った机の上に広げられた『管子』の書を乱暴に閉じた。
孟公威(もうこうい)も、いつもなら絶やさない軽妙な笑みを消し、遠く襄陽の空を見つめている。
「襄陽の学舎では、我々の同輩たちが次々と劉表殿に仕官し、冠を正して朝廷に列している。……だというのに、我々はこの山奥で、出ぬ答えを求めて言葉の刃を振り回しているだけだ。……これが、我々の選んだ『高潔』の正体か?」
孟公威の言葉には、隠しきれない焦燥と、そして自分たち自身の才能に対する「虚無」が混じっていた。
「仕官か。……今の劉表殿に仕えて、何ができる?」
私は、冷えた茶を一口啜り、静かに問い返した。
「境界を守り、現状を維持し、内側で詩を詠み合う。……それは『治世』ではない。ただの『延命』だ。……広元、公威。お前たちは、そんなことのために、この隆中の寒さに耐えてきたのか」
「わかっている! ……だが、孔明。お前のように、いつ現れるかもわからぬ『真の主』を待ち続けるほど、我々の若さは長くはないのだ」
石広元が立ち上がり、激しく袖を振った。
「お前は自分を『臥龍』と呼ぶ。……だが、伏せたまま一度も飛ばぬ龍は、地を這う蛇と何が違う。……お前の描く『法』も『秩序』も、誰も使わなければ、ただの紙に書かれた贅沢な夢想に過ぎん!」
広元の言葉は、鋭い錐となって私の胸を突いた。
私は、彼らの傲慢なまでの自負を知っている。
そして、その自負が、現実という壁にぶつかって砕け散る時の、痛いほどの「虚しさ」も知っている。
「……蛇で構わない」
私は、二人を見上げることなく、低い声で言った。
「天下が蛇を必要とせず、ただの夢想を嘲笑う世であるならば、私はこのままこの土に還る。……だが、もし。……もし、誰かがこの『夢想』に命を吹き込もうとする狂気が現れた時。……その時、私は蛇ではなく、天を焼く火となる」
私の瞳の中に宿る、凍てつくような決意。
それを見た二人は、毒気に当てられたように口を閉ざした。
友人たちが立ち去った後、廬は耐え難いほどの静寂に包まれた。
均(きん)が灯した一本の蝋燭が、揺れながら短くなっていく。
(虚しいか……?)
私は自らに問うた。
叔父上の印綬。泥に塗れたあの夜。
私が求めているものは、個人の立身出世ではない。
けれど、友の言う通り、私の知恵はまだ、この隆中の霧さえも晴らすことができずにいた。
私は暗闇の中で、自分の掌を握りしめた。
そこには、かつて叔父上の手を握った時の、あの消えない熱だけが残っていた。
青年・諸葛亮。二十三歳。
才能という名の孤独な牢獄の中で、彼はまだ、自分の「時」がどこにあるのかを見つけられずにいた。
その時。
遠く、南の空で雷鳴が轟いた。
それは、春の訪れを告げる雨の予感か。
あるいは、新野(しんや)の地で喘ぐ、一人の「得体の知れない男」が発した、魂の叫びだったのか。
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