第四十六話:泥濘(でいねい)の忠義
第四十六話:泥濘(でいねい)の忠義
執筆:町田 由美
雨は降っていないというのに、長坂坡の土は、流された血によって赤黒い泥濘(ぬかるみ)と化していた。
「……子龍! 生きていたか!」
長坂橋のたもと、返り血で黒鬼のような形相となった張飛(翼徳)が、駆け戻ってきた趙雲の姿を捉えて咆哮した。趙雲の白銀の鎧は、すでに無数の剣創と返り血で覆われ、かつての輝きを失っている。だが、その懐に抱かれた赤ん坊――阿斗(あと)だけは、一滴の血も浴びることなく、奇跡のように眠っていた。
「……翼徳殿。……主母(糜夫人)は、……お救いできなかった」
趙雲の声は、枯れた木の葉が擦れ合うように掠れていた。
彼は思い返していた。崩れかけた土塀の傍ら、深い井戸の淵で、重傷を負った糜(び)夫人が、自らその身を投じた瞬間のことを。彼女は、自らが足手まといになることを拒み、我が子の命を趙雲に託して、静寂の中に消えた。
趙雲は、曹操軍が井戸を暴き、彼女の遺体を辱めることがないよう、泣きながら周囲の土塀を崩し、その井戸を埋めたのだ。
「……そうか。……あの御方は、最後まで『劉家の誇り』を貫かれたのだな」
張飛は蛇矛(じゃぼう)を強く握り直し、鼻を大きく鳴らした。その瞳には、悲しみを押し殺した猛火が宿っている。
「子龍、よくやった。兄者(劉備)の元へ急げ。……曹操の奴め、本気で惚れ込んでいやがるぜ。先ほど、高台の上の曹操が『あの白銀の将を殺すな、生け捕りにせよ』と触れ回るのが聞こえた。……貴様の忠義が、敵の魔王の心さえも動かしたんだ」
「……曹操に褒められるなど、屈辱の極み。……私はただ、軍師と交わした約束を果たしたまで」
趙雲は馬を劉備の元へと走らせた。
そこでは、変わり果てた姿となった民たちに囲まれ、劉備が茫然と立ち尽くしていた。差し出された我が子・阿斗を、劉備は受け取るやいなや、地面に投げ捨てようとした。
「この赤子のために、稀代の勇将を失うところであったわ!」
劉備の叫びは、我が子への愛ゆえの、極限の「徳」の暴発だった。
私は、その光景を冷徹な軍師の目で見つめながらも、胃の奥が焼けるような痛みを覚えていた。
「……将軍、おやめください。……子龍殿が救ったのは、あなたの息子である以上に、この軍の『希望』そのものです」
私は泥にまみれた羽扇(うせん)を掲げ、北の空――曹操が鎮座する高台を指差した。
「曹操は今、我々を嘲笑っているでしょう。民を連れて逃げ惑う、無力な『善人』の集団だと。……だが、見ておれ、曹操。……あなたは今日、一つの井戸を埋めたかもしれないが、数万の民の胸に、決して消えぬ『復讐』という名の種を植えたのだ」
私は、張飛に再び視線を送った。
「翼徳殿。……橋を落としなさい。……そして、子龍殿。……あなたは、その傷を癒す暇もありません。……これより、我々は江(長江)を渡ります。……法が死に、徳が踏みにじられたこの地を離れ、……知略という名の刃を研ぎ直すために」
青年・孔明。二十八歳。
長坂坡の惨劇は、彼の心から、最後の「甘え」を削ぎ落とした。
井戸に埋められた糜夫人の最期。民の悲鳴。
それらすべてを糧にして、孔明は、冷徹極まる「外交」という名の戦場へ、単身乗り込む決意を固める。
「……孫権を。……呉の周瑜を、動かしてみせる。……この血の海を、彼らの意地に叩きつけてやるのだ」
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