第四十七話:法の骸(むくろ)
第四十七話:法の骸(むくろ)
執筆:町田 由美
長坂橋が轟音と共に崩れ落ち、張飛の咆哮が遠ざかっていく。
だが、一時的な足止めに成功したとしても、我々の背後には依然として曹操の巨大な殺意が張り付いていた。
私は、逃げる民の波の中にいた。
そこには、もはや「秩序」など存在しなかった。
かつて私が新野で説いた「法」も、趙雲が命懸けで守ろうとした「義」も、飢えと恐怖の前に、音を立てて崩れ去っていた。
「……返して! それは、うちの子の最後の餅なのよ!」
泥だらけの女が、一人の男に縋り付いている。男は、私が授けた「諸葛餅」の袋を強引に奪い取り、女を突き飛ばした。女の腕に抱かれた赤ん坊は、泣く力さえ失い、ただ虚空を見つめている。
私は、その光景を羽扇(うせん)を握り締めたまま、ただ見つめることしかできなかった。
「……軍師殿。これが、あなたの見たかった結末か」
傍らを歩く関羽(雲長)が、低く、呪詛のような声で呟いた。彼の青龍刀は、曹操の兵を斬るためではなく、今や暴徒と化した民を威嚇し、主君の退路を確保するために使われていた。
「……違います、雲長殿。……私が守りたかったのは、この『醜さ』の先にあるはずの、穏やかな朝でした」
「朝など来ない。……見ろ。法が死んだ場所に残るのは、ただの獣の宴だ」
関羽の言葉は、私の胸を鋭くえぐった。
道端には、力尽きた老人の骸が、諸葛菜の空袋と共に転がっている。
曹操の兵に殺されたのではない。彼らは、絶望という名の毒に、内側から焼き殺されたのだ。
私は、その老人の横に跪き、泥に汚れた諸葛餅の欠片を拾い上げた。
(……月英殿。……私の知恵は、彼らを救うどころか、生き延びるための『奪い合い』を助長させただけなのでしょうか。……法が届かぬ場所で、私の理(ことわり)は、これほどまでに無力なのか)
突如、北の森から鳥が飛び立ち、再び地響きが始まった。
曹操の別働隊だ。彼らは橋を迂回し、我々の側面を突こうとしている。
「……孔明殿! 早く! 早く馬に乗れ!」
劉備将軍が、必死の形相で私を呼ぶ。
私は最後にもう一度だけ、泥に沈んだ「法の死体」――民の群れを振り返った。
彼らを捨てなければ、劉備という種火が消える。
だが、彼らを見捨てた瞬間、劉備という「徳」の正当性は、永遠に失われる。
「……理を……。理を書き換える。……この敗走のすべてを、曹操への『負債』として、私の魂に刻み込む」
私は立ち上がり、馬に跨った。
その瞳から、湿った感情が消え、絶対零度の「戦略」という名の火が灯った。
「雲長殿。……民の一部を、江(長江)の支流へと誘導しなさい。……囮(おとり)にするのではありません。……そこに、私が密偵に手配させていた『最後の大博打』があるはずです」
青年・孔明。二十八歳。
法の死を看取り、彼は「人」としての涙を捨てた。
この地獄を生き残るために、彼は自らを、冷徹な計算機へと変貌させていく。
長坂坡、第二の惨劇。
そこには、かつての隆中の穏やかな農夫の面影は、微塵も残っていなかった。
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