第四十四話:十万の足音

​第四十四話:十万の足音


​執筆:町田 由美


​ 新野の城門が、最後の一人が通り抜けるのと同時に、重い音を立てて閉ざされた。

 だが、そこにあるのは守護ではなく、放棄だ。

 私は馬車を降り、劉備将軍の傍らで、果てしなく続く民の列を眺めていた。

​ 老人を背負う若者、泣きじゃくる赤子を抱く母親、そして、私が教えた「命の糧」の袋を大事そうに抱える子供たち。

 十万の民。彼らは、劉備という「徳」の光を信じ、故郷を捨て、不確かな未来へと足を踏み出した。

​ 「……孔明殿。見てくれ、この光景を。……彼らを置いていけば、私の行軍は十倍速くなる。……だが、彼らを捨ててまで得る勝利に、何の意味があるのか」

​ 劉備将軍の声は、悲痛な決意に満ちていた。

 私は羽扇(うせん)を胸に当て、深く、深く頭を下げた。

​ 「将軍。……あなたのその『甘さ』こそが、私が隆中を出た理由です。……ですが、理(ことわり)は残酷です。……曹操は、あなたのその慈悲を、最大の弱点として突いてくるでしょう」

​ 私は、殿(しんがり)を任せた関羽と張飛を呼び寄せた。

​ 「雲長殿、翼徳殿。……これより先、道は一つ。……曹操の虎豹騎は、風よりも速く、雷よりも鋭く迫ります。……民の歩みは遅い。……あなたがたの戦いは、敵を討つことではない。……一刻でも長く、その『時間』を稼ぐことです」

​ 関羽は、月光に煌めく青龍偃月刀を握り締め、北の空を睨んだ。

 「軍師殿。……この命、民の盾となるためにある。……雲長、一歩も退かぬ」

​ 張飛は、腰の携帯食を一口齧り、豪快に笑った。

 「がはは! 軍師の餅を食ったんだ、力は有り余ってるぜ! ……曹操の馬ども、俺の蛇矛で串刺しにしてやる!」

​ 逃避行は、三日三晩続いた。

 睡眠は奪われ、寒さが骨まで凍み通る。

 私が民に授けた乾飯や諸葛餅が、唯一の生命線だった。焚き火を上げれば敵に位置を知らせる。民たちは暗闇の中、冷たい餅を噛み締めながら、互いの体温を頼りに歩き続けた。

​ 私は、列の最後尾で、何度も振り返った。

 地平線の向こう、闇が不自然に波打っている。

 それは、数万の蹄が巻き上げる土埃。

 「理」が告げている。……もう、間に合わない。

​ 「……子龍殿!」

​ 私は、静かに列の横を走る趙雲を呼び止めた。

 「……もし、陣が乱れ、民が散り散りになった時……。将軍のご家族を、甘(かん)夫人、糜(び)夫人、そして阿斗(あと)様を、どうか……」

​ 「……わかっております、軍師。……私の命は、そのためにあります」

​ 趙雲の白銀の鎧が、夜露に濡れて鈍く光った。

 その瞬間だった。

​ ――ドォォォォォォォン!!

​ 地響きが、大気を引き裂いた。

 北の空から、数千、数万の「火」が流れてくる。

 曹操の精鋭、虎豹騎。

 ついに、死の鎌が十万の民の背中に届いたのだ。

​ 「……来たか」

​ 私は、羽扇を強く握りしめた。

 これから始まるのは、戦ではない。

 一方的な、蹂躙。

 

 惨劇の地、長坂坡(ちょうはんは)。

 

 青年・孔明。二十八歳。


 彼は、自らが背負った「徳」の重みが、これほどまでに多くの血を流させることになる現実に、初めて直面しようとしていた。

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