第四十三話:命の糧
第四十三話:命の糧
執筆:町田 由美
新野の炊き出し場は、蒸気と熱気に包まれていた。
私は、戦支度に追われる将軍たちの傍らで、大釜を見つめる女たちに、ある「製法」を伝えていた。それは、私が隆中で月英殿と幾度も試作を重ねた、極限状態での生存を支えるための知糧――「乾飯(ほしいい)」と「諸葛餅」であった。
「……いいですか。米は一度蒸し上げ、天日で完全に乾かしなさい。そうすれば、袋に入れておくだけで数ヶ月は腐らない。……そして、この諸葛菜を細かく刻んで練り込んだ餅。これに多めの塩と、少しの蜂蜜を加えなさい」
私は、自ら粉まみれになりながら、その黄金色の餅を平たく伸ばした。
「これは、止まって火を焚く暇のない時に、歩きながら口にするものです。……塩分は兵たちの足の浮腫(むくみ)を取り、蜂蜜は疲れ果てた頭に、一瞬の閃きを返してくれる。……これを、一人あたり十日分、腰に下げさせるのです」
そこへ、巨大な荷を担いだ張飛(翼徳)が、鼻をヒクつかせながら寄ってきた。
「おい軍師、いい匂いじゃねえか。……だが、こんな小さな餅で、俺の腹が膨れると思うか?」
私は、焼き上がったばかりの平たい餅を、張飛の口へ放り込んだ。
「……!? ……なんだこれ、見た目より重てえな。噛めば噛むほど、力が湧いてくるようだ」
「将軍。……戦は胃袋でするものです。……曹操の兵は、略奪した豊かな食糧を贅沢に食らうでしょう。だが、我々は違う。……この一枚の餅に、新野の土の力と、愛する者を守るための執念を凝縮させた。……これを噛みしめる時、兵たちは自分が『なぜ逃げているのか』ではなく、『なぜ生き残らねばならないのか』を思い出すはずです」
私は次に、趙雲(子龍)を呼び、一つの特殊な革袋を手渡した。
「子龍殿。……これは、水に諸葛菜の粉末と干し肉の細片を混ぜた、携帯用の『薬湯』の素です。……あなたが長坂坡で、万一独りで敵陣を駆けねばならなくなった時、……これを一口含みなさい。……あなたの心臓は、再び鉄のような鼓動を取り戻すでしょう」
趙雲は、その革袋を大切そうに胸に収めた。
「……軍師。あなたは、私たちの体の隅々まで、その『理』で行き渡らせようとしておられる。……武器だけでなく、食べ物までもが、あなたの策の一部なのですね」
私は、炊き出し場の喧騒から少し離れ、夕暮れの空を見上げた。
(……月英殿。……あなたの言った通りになりました。……知恵とは、人を殺すための剣ではなく、人を繋ぎ止めるための『粥』なのだと、今なら分かります)
城内では、十万の民が、孔明の指示通りに作られた携帯食糧を、宝物のように大切に袋へ詰めていた。
この「小さな糧」が、のちに曹操の猛追にさらされる地獄の逃避行において、どれほどの命を繋ぎ止めることになるか。
「……準備は整いました、将軍」
私は劉備将軍の前に立ち、深く一礼した。
「……新野を捨てます。……ですが、新野の魂は、この十万の胃袋の中に、今、確かに収まりました」
青年・孔明。二十八歳。
彼は「食」という名の究極の兵站(へいたん)を、民の掌に託した。
それは、数字上の勝利を追う曹操には、決して理解できない「愛という名の戦略」であった。
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