​第四十二話:最後の収穫

​第四十二話:最後の収穫


​執筆:町田 由美


​ 空は、抜けるような冬の青さを湛えていた。

 だが、その北の果て、地平線の向こう側には、巨大な獣が這い寄るような黒い土煙が、じわりじわりと空を侵食し始めている。曹操の五十万。その先鋒の影が、すでにこの愛すべき小城を射程に捉えていた。

​ 「……さあ、急ぎましょう。土に一粒たりとも、命を残してはいけません」

​ 私は、軍服の裾をまくり、民たちに混じって畑に立っていた。

 手に持つのは羽扇(うせん)ではなく、使い古された鎌だ。

 私が植えた「諸葛菜(しょかつさい)」は、期待に応えるように瑞々しく、そして逞しく育っていた。

​ 「軍師様、こんなに立派な蕪(かぶ)が穫れたよ!」

 

 泥だらけの顔をした子供が、自慢げに一つを持ち上げて見せる。私はその子の頭を優しく撫で、腰を落として地面を指差した。

​ 「いいかい、これはただの食べ物じゃない。これから始まる長い、長い旅の途中で、君とお母さんを守ってくれる『命の種』だ。一つも無駄にせず、袋に詰めなさい」

​ 民たちは、私の言葉に宿る微かな震えを感じ取ったのか、一言も発さず、ひたすらに土を掘り起こした。

 収穫の喜びと、故郷を捨てる悲しみ。その相反する感情が、新野の土の上に重く沈殿していく。

​ 「……孔明殿。もはや、猶予はない」

​ 劉備将軍が、愛馬・的盧(てきろ)を引いて現れた。彼の背後には、完全に武装を整えた趙雲(子龍)が控えている。

 

 「偵察の報によれば、曹操の先鋒・曹純(そうじゅん)の虎豹騎(こひょうき)が、すでに数里先まで迫っている。……民を連れての撤退。……これほどの数の作物を運ぶのは、行軍を遅らせることにならないか」

​ 私は、最後の一株を引き抜き、泥を払って立ち上がった。

​ 「将軍。……兵にとっての勝利は敵を討つことですが、民にとっての勝利は『飢えずに明日を迎えること』です。……この収穫こそが、彼らにとっての最初の戦果なのです。……食糧があれば、心は折れません。……心が折れなければ、新野の民はどこへ行っても、そこを新野に変えることができる」

​ 趙雲が進み出て、私が収穫した重い籠を肩に担ぎ上げた。

​ 「軍師の仰る通りです。……私が殿(しんがり)を務めましょう。……この命に代えても、一袋の種、一人の民も、曹操の馬に踏ませはしません」

​ 趙雲の瞳には、清廉な誓いの火が灯っていた。

​ 収穫が終わった畑は、まるで墓標のように静まり返っていた。

 私は、自分の手で耕したこの土を、最後に一度だけ強く踏みしめた。

 

 「……さらばだ、新野。……私の未熟な『理』を、育んでくれた大地よ」

​ 城内へ戻る道すがら、私は将軍たちにある「指示」を出した。

 

 「雲長殿、翼徳殿。……収穫したばかりの諸葛菜の葉を、城内のあちこちにわざと散らしておきなさい。……そして、井戸には蓋をし、家々には灯火を残しておくのです」

​ 「……それは、何の意味がある。軍師殿」

 関羽が怪訝そうに尋ねる。

​ 「……曹操への『挨拶』です。……我々がここを捨てたのではなく、今、まさに息づいていると思わせる。……その一瞬の迷いが、民の歩みを数里先へと進ませるのです」

​ 青年・孔明。二十八歳。

 

 彼は、自らの「農夫としての半身」を、この収穫をもって葬った。

 次の一歩を踏み出す時、彼はもはや土を耕すことはない。

 

 彼は、人の命を、国の命を、炎と知略で耕す「化け物」へと変貌していく。

 

 新野の城門が閉まる音が、弔鐘のように夕闇に響いた。

 



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