第三十九話:千里の目


​第三十九話:千里の目


​執筆:町田 由美


​ 新野の夜は更け、将軍たちが眠りについた後も、私の部屋の灯火だけは消えることがなかった。

 私は、月英殿の工房で作らせた、特殊な「薄絹の地図」を机に広げていた。それは、指でなぞるだけで、起伏や川の流れが立体的に浮かび上がる、情報の結晶だった。

​ 「……入られよ」

​ 羽扇(うせん)を置くと同時に、部屋の影が音もなく揺れた。

 現れたのは、市井の商人や、落ちぶれた書生、あるいは農夫の身なりをした数人の男女。彼らは私の「目」であり「耳」である、新野の密偵たちだった。

​ 「軍師。……許都の動き、掴みました。……曹操は今、玄武池(げんぶち)に水軍の調練場を造らせております。……その規模、軍船の数は、明らかに北の川ではなく、長江(ちょうこう)を、つまり南を狙ったものです」

​ 密偵の一人が、懐から小さな紙片を差し出した。

 私はそれを灯火にかざし、文字が浮かび上がるのを確認する。

 

 「……水軍か。曹操、ついに己の弱点を克服しに来たか」

​ 私は別の密偵に目を向けた。

 

 「襄陽(じょうよう)はどうだ。劉表(りゅうひょう)殿の容体は」

​ 「……予断を許しません。蔡瑁(さいぼう)の一派が城門を固め、長男の劉琦(りゅうき)様を遠ざけております。……劉表様が崩御されれば、蔡瑁は必ず次男の劉琮を立て、曹操に降るでしょう」

​ 密偵の声は淡々としていたが、その情報は新野の滅亡を告げる死刑宣告に等しかった。

 北に五十万の曹操、南に裏切りを画策する蔡瑁。新野は、巨大な万力に挟まれた木の実のようなものだ。

​ 「……よし。お前たちに、次なる命を与える」

​ 私は羽扇を地図の一点――江東(ごうとう)の孫権(そんけん)の領地へと滑らせた。

​ 「一人は、呉(ご)へ潜れ。……孫権の周囲で、誰が主戦論を唱え、誰が降伏を口にしているか。……特に、若き司令官・周瑜(しゅうゆ)という男の気質、その知略の癖を、根こそぎ拾い集めてこい」

​ 密偵たちが深く頷き、再び闇の中へ溶け込もうとした時、私は彼らを呼び止めた。

 

 「……生きて戻れ。……お前たちが死ねば、私の『理』は、ただの盲目となる。……新野の民の命、すべてはお前たちの足にかかっている」

​ 密偵たちの背中が、一瞬だけ硬くなった。

 誇り。ただの使い走りが、天下を動かす歯車の一部であるという自覚。

 私は彼らに、金ではなく「使命」という名の重みを与えた。

​ 彼らが去った後、私は窓を開け、冷たい夜気を吸い込んだ。

 

 (……曹操。……あなたは巨大な波を立てて進む。……だが、私はその波紋のひと揺れさえも、逃さず捉えてみせる)

​ 私は、月英殿がかつて言った言葉を思い出していた。

 『孔明様。……知恵とは、遠くを見るための梯子ではなく、闇の中に自分を溶け込ませる術(すべ)です』

​ 青年・孔明。二十八歳。

 

 彼は新野から一歩も出ることなく、その精神を蜘蛛の糸のように天下へと張り巡らせていた。

 曹操の進軍、劉表の死、孫権の迷い。

 すべての情報を手繰り寄せた時、私の脳内の地図は、血の赤色に染まり始めた。

 

 理(ことわり)が、次なる「火」の場所を指し示している。

 

 「……将軍。……もうすぐ、この静かな晩酌も終わります。……準備を、始めねばなりません」

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