第三十八話:月下の友垣
第三十八話:月下の友垣
執筆:町田 由美
新野の夜は、練兵場の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
私は、劉備将軍の執務室の片隅で、彼と一つの膳を囲んでいた。豪華な食事ではない。地元の民が差し入れた粗末な野菜の煮物と、少しばかりの酒。だが、この「寝食を共にする」という時間こそが、私と将軍の魂の隙間を埋めていく大切な儀式だった。
「……孔明殿。貴殿が来てから、新野の風が変わった。関羽も張飛も、あんなに熱心に陣形を学ぶ姿は、かつて見たことがない」
劉備将軍は、少しばかり赤くなった顔で、静かに杯を傾けた。
「だが、こうして貴殿と向かい合っていると……どうしても、あの一人の男の顔が浮かんでしまうのだ」
私は羽扇(うせん)を置き、将軍の瞳を見つめた。
言わずとも分かっていた。その名は、私と将軍を繋ぐ「運命の糸」を紡いだ男。
「……徐元直(じょげんちょく)殿、ですね」
「ああ。……元直が、曹操の卑劣な策に落ち、母上のためにここを去らねばならなくなったあの日。彼は馬を返し、私に貴殿のことを告げた。……『臥龍を、自ら訪ねよ』と。……あの時の彼の瞳は、自分を責めるような、しかし、どこか救いを見つけたような色をしていた」
私は、窓の外に浮かぶ白い月を仰いだ。
元直。隆中での日々、共に学問を論じ、天下の行く末を憂えた無二の親友。
「元直殿は、自分を『不忠の臣』だと恥じておられました。……母を見捨てられず、主君の元を去る自分を。……ですが、将軍。あの方は、自らの身を曹操に差し出すことで、結果として、私という『理』をあなたの元へ送り届けたのです。……彼は、去り際まであなたを救おうとしていた」
劉備将軍は、震える手で杯を置き、私の手の上に自らの掌を重ねた。
「孔明殿。……私は、元直を許している。いや、感謝しているのだ。……だが、彼が今、曹操の軍門に降り、沈黙を守り続けていることを思うと、胸が締め付けられる。……彼は、二度と策を献じぬと誓ったというではないか。……稀代の才を持ちながら、死んだように生きる……。それがどれほどの地獄か」
「……元直殿らしい選択です。……彼は、自分の知恵が、あなたの敵となることを何よりも恐れた。……だから、自らの才能を封印したのです。……それは、剣を折ってあなたを守り続けるという、彼なりの『義』なのです」
私は、劉備将軍の重ねられた手の温もりを感じながら、心の奥底で元直に語りかけていた。
(元直。……君が見つけたこの主君は、君が愛した通り、あまりにも優しく、あまりにも脆い。……君が封じた知恵の分まで、私はこの人を支えよう。……たとえ、この手がどれほど血に染まろうとも)
「孔明殿。……貴殿も、いつか私の元を去る日が来るのだろうか。……元直のように、不本意な別れが、また訪れるのだろうか」
劉備将軍の瞳には、英雄らしからぬ、一人の老いた男の「孤独への怯え」が滲んでいた。
私は、彼の掌を、同じ強さで握り返した。
「……将軍。……私は、一度選んだ『主』を、死ぬまで離しません。……元直殿が託したこの命、あなたが天下の頂に立つその日まで、あるいは、隆中の土に私が還るその日まで、すべてをあなたに捧げます」
夜が更けていく。
私たちは、その後も、元直との思い出や、隆中での隠遁時代の話、そして、これからの新野が迎えるであろう激動について、夜を徹して語り合った。
寝食を共にし、同じ夢を食らう。
「水」と「魚」は、この夜、元直という名の月明かりの下で、完全なる一つの命となった。
青年・孔明。二十七歳。
友の不在を悼み、主君の孤独を抱きしめ、彼は、軍師としての冷徹な仮面の下にある「一人の人間としての体温」を、初めて劉備に見せたのだった。
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