第四十話:紅蓮の前兆
第四十話:紅蓮の前兆
執筆:町田 由美
新野の執務室、深夜。
灯火が小さく爆(は)ぜる音が、今の私には戦場の火蓋が切られる音のように聞こえていた。
先刻届いた密偵の報――「曹操、博望坡の敗戦に激昂。諸葛孔明なる者を捕らえ、その根を断てと命ず」。
私の「根」……それは隆中に残してきた家族。
私が「理」を証明すればするほど、愛する者たちが「死」に近づく。それが乱世という名の天秤の残酷な均衡だった。
私は、震える指先を抑え、机の上に二本の竹簡を並べた。
一つは弟・均へ。もう一つは、最愛の妻・月英殿へ。
『均。……この竹簡が届く頃、隆中の静寂は破られているだろう。……兄を恨むな。……すぐに家財を捨て、案内する者の指示に従い、南の深い山へと逃げよ。……そこに、叔父上の墓に備えたのと同じ種類の花が咲く場所がある。……再会を信じよ』
文字が、滲みそうになるのを堪えて筆を運ぶ。
そして、月英殿への竹簡。私は彼女にだけは、真実を綴らねばならなかった。
『月英殿。……私の「理」が、ついに世界を敵に回しました。……あなたが贈ってくれた羽扇は、今、多くの血と風を呼んでいます。……隆中の工房は、おそらく灰になる。……だが、あなたの知恵は、私の胸の中で生きている。……黄承彦(こうしょうげん)殿を連れ、速やかに荊州の南端、あるいは呉の境まで逃れてください。……あなたの「具体」が必要になる日が、必ず来る。……その時まで、どうか、どうか健やかで』
私は竹簡を固く縛り、密閉の蝋を垂らした。
「……密偵、一号」
影が再び動く。
「これを、隆中へ。……命に代えても届けろ。……そして、彼らが安全な場所に落ち着くのを見届けるまで、決して側を離れるな」
私は、密偵の瞳をじっと見つめた。
「これは、軍令ではない。……諸葛孔明という一人の男の、たった一度の『私欲』だ。……頼む」
密偵は言葉を発せず、ただ一度、拳を胸に当てて決意を示し、夜の闇へと飛び出していった。
窓の外、遠く北の空が、不自然に赤みを帯びているように見えた。
曹操の五十万。その先鋒が、私の故郷を、私の思い出を、蹂躙しようとしている。
私は、傍らに置かれた羽扇を強く握りしめた。
「……月英殿。……私は、あなたを捨てたのではありません。……あなたを、この『天下』という名の戦場へ、一足先に招いただけなのです」
そこへ、足音も荒く関羽と張飛が駆け込んできた。
「軍師! 曹操の主力、宛(えん)を越えたとの報だ! ……その数、五十万以上。……新野など、一跨ぎで潰すつもりだぞ!」
張飛の声には、流石に隠しきれない焦燥があった。
私は、書き終えたばかりの竹簡の余韻を心の奥底に封じ込め、再び冷徹な「軍師」の面(おもて)を被った。
「……知っております、将軍。……博望坡の火は、巨大な嵐を呼び寄せるための焚き火に過ぎませんでした。……本番は、これからです」
私は立ち上がり、地図を指差した。
「劉備将軍を。……そして、この新野の民すべてを。……死の淵から救い出す策、これより始めます」
青年・孔明。二十八歳。
家族との別れ。平穏への訣別。
彼は自らの「私」を完全に切り捨て、数万の民の命を背負う「公」の怪物へと変貌していく。
理(ことわり)の炎が、今度は新野そのものを焼き尽くさんとしていた。
第四十話:紅蓮の前兆
執筆:町田 由美
新野の執務室、深夜。
灯火が小さく爆(は)ぜる音が、今の私には戦場の火蓋が切られる音のように聞こえていた。
先刻届いた密偵の報――「曹操、博望坡の敗戦に激昂。諸葛孔明なる者を捕らえ、その根を断てと命ず」。
私の「根」……それは隆中に残してきた家族。
私が「理」を証明すればするほど、愛する者たちが「死」に近づく。それが乱世という名の天秤の残酷な均衡だった。
私は、震える指先を抑え、机の上に二本の竹簡を並べた。
一つは弟・均へ。もう一つは、最愛の妻・月英殿へ。
『均。……この竹簡が届く頃、隆中の静寂は破られているだろう。……兄を恨むな。……すぐに家財を捨て、案内する者の指示に従い、南の深い山へと逃げよ。……そこに、叔父上の墓に備えたのと同じ種類の花が咲く場所がある。……再会を信じよ』
文字が、滲みそうになるのを堪えて筆を運ぶ。
そして、月英殿への竹簡。私は彼女にだけは、真実を綴らねばならなかった。
『月英殿。……私の「理」が、ついに世界を敵に回しました。……あなたが贈ってくれた羽扇は、今、多くの血と風を呼んでいます。……隆中の工房は、おそらく灰になる。……だが、あなたの知恵は、私の胸の中で生きている。……黄承彦(こうしょうげん)殿を連れ、速やかに荊州の南端、あるいは呉の境まで逃れてください。……あなたの「具体」が必要になる日が、必ず来る。……その時まで、どうか、どうか健やかで』
私は竹簡を固く縛り、密閉の蝋を垂らした。
「……密偵、一号」
影が再び動く。
「これを、隆中へ。……命に代えても届けろ。……そして、彼らが安全な場所に落ち着くのを見届けるまで、決して側を離れるな」
私は、密偵の瞳をじっと見つめた。
「これは、軍令ではない。……諸葛孔明という一人の男の、たった一度の『私欲』だ。……頼む」
密偵は言葉を発せず、ただ一度、拳を胸に当てて決意を示し、夜の闇へと飛び出していった。
窓の外、遠く北の空が、不自然に赤みを帯びているように見えた。
曹操の五十万。その先鋒が、私の故郷を、私の思い出を、蹂躙しようとしている。
私は、傍らに置かれた羽扇を強く握りしめた。
「……月英殿。……私は、あなたを捨てたのではありません。……あなたを、この『天下』という名の戦場へ、一足先に招いただけなのです」
そこへ、足音も荒く関羽と張飛が駆け込んできた。
「軍師! 曹操の主力、宛(えん)を越えたとの報だ! ……その数、五十万以上。……新野など、一跨ぎで潰すつもりだぞ!」
張飛の声には、流石に隠しきれない焦燥があった。
私は、書き終えたばかりの竹簡の余韻を心の奥底に封じ込め、再び冷徹な「軍師」の面(おもて)を被った。
「……知っております、将軍。……博望坡の火は、巨大な嵐を呼び寄せるための焚き火に過ぎませんでした。……本番は、これからです」
私は立ち上がり、地図を指差した。
「劉備将軍を。……そして、この新野の民すべてを。……死の淵から救い出す策、これより始めます」
青年・孔明。二十八歳。
家族との別れ。平穏への訣別。
彼は自らの「私」を完全に切り捨て、数万の民の命を背負う「公」の怪物へと変貌していく。
理(ことわり)の炎が、今度は新野そのものを焼き尽くさんとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます