第三十六話:新野の鼓動
第三十六話:新野の鼓動
執筆:町田 由美
博望坡の勝利は、新野に束の間の歓喜をもたらしたが、私はその甘い空気を一瞬で叩き潰した。
夜明け前。まだ星が瞬く練兵場に、私は全軍を呼び集めた。
「……これより、新野の軍は『法』によって動く。……勇猛なだけでは、私の駒にはなれない」
羽扇(うせん)をひと振りする。それを合図に、私は新しく書き換えた軍律の竹簡を全将兵に突きつけた。
今までは関羽・張飛の「個の武勇」に依存していた軍を、一人の思考停止も許さぬ「精密な器械」へと作り替える作業。それは、月英殿と一緒に器械の歯車を噛み合わせる作業に似ていた。
「軍師殿。……この『八門金鎖(はちもんきんさ)』の陣立て、歩兵の歩幅一つまで決める必要があるのか?」
張飛が、大きな頭を掻きながら尋ねてくる。かつての反抗心はなく、そこにあるのは「純粋な疑問」と「全幅の信頼」だ。
「将軍。一歩の乱れは、十万の隙となります。……あなたが戦場の最前線で暴れるためには、あなたの背後を守る数千の兵が、一寸の狂いもなく動かねばならないのです」
私は、張飛の蛇矛の穂先を羽扇で示し、優しく微笑んだ。
「あなたが『矛』であるなら、私はその『柄』。……柄が曲がっていては、どんな名将も敵を穿てません」
「……はは、相変わらず言い負かされるな! 分かった、俺の部下どもは俺が叩き直す!」
張飛が豪快に笑い、兵たちの中へ飛び込んでいく。
その様子を、私は関羽と共に、一歩下がった場所で見守っていた。関羽は静かに、磨き抜かれた青龍刀を抱え、私に問いかけた。
「……軍師殿。あなたは、この小さな新野で何を育てようとしている。……単なる兵か。それとも……」
「……『意志』です、雲長殿。……曹操の巨大な権力に対抗できる唯一のものは、何があっても折れぬ、民と兵の意志だけです。……私はそれを、仕組みによって守りたい」
関羽は深く頷いた。その瞳には、私という男の底知れぬ深淵への畏怖と、それを己の「義」として受け入れた者の静かな覚悟が宿っていた。
夕刻。練兵が終わった後、私は一人の若き将軍と向き合っていた。
趙雲、子龍。
その白銀の鎧を纏った姿は、新野の埃の中でも一点の曇りもなく輝いている。
「軍師。……一つ、教えていただきたい」
趙雲が、涼やかな瞳で私を見た。
「あなたは、博望坡で数万を焼き払った。……その時、あなたの心に迷いはなかったのですか」
私は羽扇を止め、趙雲を見つめ返した。
新野の中でも、趙雲の心根はとりわけ清廉だ。だからこそ、彼は「理」による殺戮に、誰よりも敏感だった。
「……子龍殿。……私は、毎夜、あの炎の音を聴いています。……迷わぬはずがありません」
私は、自らの白く細い手を見つめた。
「ですが、私が迷えば、新野の民が焼かれます。……私が冷徹な『鬼』になれば、この街の子供たちは、明日も笑って目を覚ますことができる。……私は、自分の魂を汚すことで、彼らの未来を買っているのです」
趙雲は、意外そうに目を見開いた。
「……そうでしたか。……軍師、あなたは一人で、その業を背負おうとしておられるのだ」
趙雲は、静かに私の前に跪いた。
「ならば、この趙子龍、あなたの盾となりましょう。……あなたが汚れることを恐れぬなら、私はその汚れを払う風となります」
「……ありがとう、子龍殿」
夜の新野に、篝火が灯る。
劉備将軍が、酒瓶を抱えてやってくる。
「孔明殿! 子龍! 今夜は飲もう。……政治の話ではない。……かつて、私たちが何に憧れ、なぜ今ここに立っているのか、そんなとりとめのない話をしたいのだ」
劉備将軍の温かな声に、私たちの間に流れていた張り詰めた緊張が、ふっと解けた。
青年・孔明。二十七歳。
新野という小さな揺り籠の中で、彼は「水を得た魚」として、人生で最も濃密で、最も幸福な、嵐の前の静寂を噛み締めていた。
月英殿の顔が、夜空の月に重なる。
(……月英殿。……私は今、最高の友を得ました。……ですが、この幸せが、長くは続かぬことも、私は知っているのです)
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