第三十五話:跪く虎

​第三十五話:跪く虎


​執筆:町田 由美


​ 博望坡の谷間に立ち込めていた焦げ臭い煙は、夜風に流され、新野の城門にまで届いていた。

 私は、冷え切った城楼の板間に立ち、戻ってきた将軍たちを待っていた。手にした羽扇(うせん)は、勝利の熱を鎮めるように、ゆっくりと、しかし確かなリズムで夜気を刻んでいる。

​ やがて、重い鎧の軋む音と共に、二人の巨大な影が階段を登ってきた。

 関羽と張飛。

 かつて不遜な光を宿していた彼らの瞳は、今は煤と血に汚れ、言葉にできぬ「戦慄」と「敬意」に塗り替えられていた。

​ 「……軍師殿」

​ 関羽が、その重い膝を、私の前でついた。

 続いて張飛も、あの蛇矛を杖のようにつき、地響きを立てて跪く。

​ 「我らの無礼、万死に値する。……これまで貴殿を『口先だけの書生』と侮っていた。だが、あの火計……あの完璧な時機、完璧な配置。……あれはもはや、人の業ではない。……この関雲長、今日よりあなたの『理』に、この命を預けます」

​ 関羽の声は、低く、重く、震えていた。

 一方の張飛は、悔しそうに鼻を鳴らしながらも、その瞳には少年のような純粋な心服が浮かんでいた。

​ 「……ケッ、負けたよ。……軍師、あんたの言う通りだ。蛇矛じゃ、一度に十万は殺せねえ。……だが、あんたの火なら、俺の背中を預けられる。……これからは、俺を『手足』として好きに使いな。逆らう奴は、俺がぶち殺してやる」

​ 私は、羽扇を閉じ、二人の間に一歩踏み出した。

 そして、跪く彼らの肩に、優しく、しかし重みを持って手を置いた。

​ 「……お立ちください、将軍方。……私は、あなた方を『手足』にするために隆中を出たのではありません。……あなた方は、私の『意志』そのものになっていただく。……火を放つのは私ですが、その火を希望の灯火に変えるのは、あなた方の義であり、武勇なのです」

​ 私が手を差し出すと、二人は戸惑いながらも、私の手を取り、立ち上がった。

 その掌の硬さ。数多の戦を潜り抜けてきた男たちの、岩のような厚み。

 それが、私の孤独な「理」と、初めて熱を持って繋がった瞬間だった。

​ 「……孔明殿!」

​ 背後から、劉備将軍の震える声が響いた。

 彼は、涙を湛えた瞳で私たちを見つめていた。

 「……ようやく、ようやく一つになった。……私の夢が、私の魚たちが、一つの大河を泳ぎ始めたのだ!」

​ 劉備将軍は、私と、関羽と、張飛を同時に抱きかかえるようにして、夜空に向かって高らかに笑った。

 それは、滅びゆく漢室の残照の中で、唯一、未来を指し示す聖なる笑い声のように聞こえた。

​ だが、私はその温もりの中で、冷静に北の空を睨んでいた。

 夏侯惇は退けた。だが、曹操という名の「本物の嵐」が、この勝利の報を聞いて動かぬはずがない。

​ 「将軍。……祝杯は一杯だけにしましょう。……明日からは、新野の民すべてを巻き込んだ、地獄のような訓練が始まります」

​ 私の言葉に、張飛がニヤリと笑った。

 「望むところだ、軍師! ……俺たちの新野を、誰にも踏ませやしねえ!」

​ 青年・孔明。二十七歳。

 

 博望の焦土の上に、新たな絆が芽吹いた。

 それは、後に「蜀」という名の国を支える、決して折れぬ大黒柱となっていく。

 

 月英殿から贈られた羽扇が、夜風を切り、新野の夜明けを静かに告げた。

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