第三十四話:紅蓮の博望
第三十四話:紅蓮の博望
執筆:町田 由美
建安十三年、初秋。博望坡(はくぼうは)の細長い谷間には、不気味なほどの沈黙が満ちていた。
私は、新野の城楼に立ち、遠く北の空を見据えていた。手にした羽扇(うせん)の先、目に見えぬ「風」が、曹操軍十万の進軍が巻き上げる土埃を運んでくる。
(――来たか)
夏侯惇(かこうとん)率いる先鋒軍は、圧倒的な武威を背景に、獲物を追い詰める狼の如き速さで迫っていた。
彼らの瞳には、小城・新野など、一飲みにできるという慢心が宿っているはずだ。私はその「慢心」という名の見えない糸を、ゆっくりと引き寄せた。
「……火を放て」
私の静かな呟きが、伝令の旗を伝わり、谷間に伏せた者たちへと届く。
博望坡の入り口では、劉備将軍と趙雲が、私の命じた通り「偽りの敗走」を演じていた。
数で劣る我が軍が、一度の接触で狼狽え、狭い谷の奥へと逃げ込む。夏侯惇は、これを見逃さない。
「逃がすな! 偽の龍、諸葛亮の首を上げろ!」
大地を揺らす蹄の音。十万の軍勢が、自ら死地へと流れ込んでいく。
その時、谷の両脇に潜んでいた関羽、張飛の胸中には、未だ私への不信と、そして言葉にできぬ「恐怖」が同居していたはずだ。
(あの若造は……本当に、この状況を読み切っているのか?)
その答えは、一瞬の閃光と共に示された。
谷の奥深くまで敵が食いついた瞬間、私が事前に配置させた埋伏の兵たちが、一斉に火を放った。
秋の枯草、乾いた風、そして私が計算し尽くした「連環の理」が、一瞬にして博望坡を地獄へと変えた。
「……あ、熱い! 火だ! 火が出たぞ!」
悲鳴が谷間に反響する。
狭い隘路(あいろ)に詰め込まれた夏侯惇の軍勢は、逃げ場を失い、互いに踏みつけ合いながら、紅蓮の炎に包まれていった。
その時だ。
伏せていた関羽、張飛の軍勢が、猛虎の如く炎の壁を背に飛び出した。
「これぞ、軍師の策か!」
張飛の咆哮が、炎の爆ぜる音を凌駕して響く。
彼らは見たのだ。
自分たちがどれほど武勇を誇ろうとも、一人の人間が振るう「知恵」という名の剣が、十万の軍勢を一瞬で灰に帰す、その圧倒的な「残酷さ」と「正しさ」を。
城楼に立つ私の指先は、微かに震えていた。
それは恐怖ではない。
私が隆中で月英殿と語り合い、孤独に磨き上げた「理」が、現実の血と炎によって裏付けられたことへの、魂の震えだ。
(叔父上。……私は、あの日誓った『法』への第一歩を、この炎の中から踏み出しました。……ですが、この熱さは、あまりにも重い……)
炎に焼かれる兵たちの断末魔を、私は羽扇で鎮めるように仰いだ。
戦いが終わった。
焦土と化した博望坡から戻った関羽と張飛は、泥と血と、そして煤にまみれた姿のまま、私の前に現れた。
二人は、かつての不遜な態度は微塵も見せず、黙って私の足元に跪いた。
「……軍師殿。……我らの無礼、万死に値する。……あなたの『理』、この関雲長、魂に刻みました」
関羽の声は震えていた。
青年・孔明。二十七歳。
初陣において、彼は「火」をもって世界にその名を知らしめた。
だが、これは始まりに過ぎない。
曹操という名の巨大な太陽が、この小さな勝利を焼き尽くさんと、すぐ背後まで迫っていた。
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