第三十一話:廬を去る

​第三十一話:廬を去る


​執筆:町田 由美


​ 廬(いおり)の門前に停められた馬車が、春の淡い陽光を浴びて静かに主を待っていた。

 私は、慣れ親しんだ机の上の埃を一度だけ払い、そして傍らに立つ均(きん)の肩に手を置いた。

​ 「……均。これからは、お前がこの家の主だ。畑を荒らすな。叔父上が愛したこの場所の静寂を、絶やすのではないぞ」

​ 均は、溢れそうになる涙を堪え、強く頷いた。

 「わかっているよ、兄様。……兄様が、天下を一つにするその日まで、ここをしっかり守っておくから」

​ 私は、月英殿の工房のあった方向へ一度だけ視線を向け、それから決然と背を向けた。

 門を出ると、そこには劉備、玄徳が待っていた。

 彼は、自らの位も忘れ、馬車の手すりに手をかけ、私が乗り込むのを手伝おうとさえしていた。

​ 「孔明殿。……いや、軍師。……さあ、参りましょう。私の、いえ、万民の希望の地へ」

​ 私は、彼の差し出した手を取り、馬車へと乗り込んだ。

 

 ギィ、と車輪が軋みを上げ、隆中の土を蹴る。

 車窓から流れていく竹林の緑。十数年、私の「理」を育ててくれたこの景色が、少しずつ、しかし確実に遠ざかっていく。

​ 「……孔明殿。こうして貴殿と並んで座っていると、不思議な心地がする」

​ 劉備が、馬車の揺れに身を任せながら、穏やかな笑みを浮かべて語りかけてきた。その語り口は、今日出会ったばかりの軍師に対するものではなく、十年来の旧知の友に接するような、不思議な親密さに満ちていた。

​ 「……ほう。左将軍ともあろうお方が、私のような若輩者に、どのような懐かしさを感じられるのですか」

​ 「……わからぬ。だが、貴殿が語った『三分の計』を聴いた時、私の心に空いていた巨大な穴が、音を立てて塞がっていくのを感じたのだ。……私は、あなたをずっと探していた。いや、生まれる前から、こうして出会うことを約束していたような……そんな気さえするのだ」

​ 劉備は、自らの古傷だらけの掌を見つめた。

 「私はこれまで、ただ『漢室を救いたい』という情熱だけで、暗闇の中を走り続けてきた。だが、どこへ走ればいいのか、誰を信じればいいのか、常に迷っていた。……だが、今、隣に貴殿がいる。それだけで、私の孤独は消えた」

​ 私は、羽扇(うせん)を胸に抱き、劉備の横顔を見つめた。

 この人は、嘘をついていない。

 この「徳」という名の引力。相手の警戒心を解き、その魂の深淵にまで手を伸ばしてくる、抗いがたい熱量。

 

 「……将軍。……私は、あなたという器を満たす『水』になりましょう。器がどこへ向かおうと、水はその形に従い、かつ、器が決して乾かぬように支え続けます」

​ 「水か。……いい言葉だ。魚は水を得て、初めてその命を全うできる。……孔明殿、私を、生きた魚にしてくれたのは貴殿だ」

​ 馬車は、新野へと続く長い街道を行く。

 道端の菜の花が揺れ、遠くからは春の鳥の囀りが聞こえる。

 だが、その穏やかな風景の向こう側で、曹操という名の巨大な影が、牙を剥いて待ち構えていることを、私たちは知っている。

​ 「……孔明殿。新野に着いたら、まずは関羽と張飛に紹介せねばならん。あやつら、少々へそを曲げておるかもしれんが、根は良い奴らだ」

​ 「ふふ。……彼らの『洗礼』を受けるのも、軍師としての最初の仕事でしょう」

​ 私は、車窓から見える果てしない地平線を見据えた。

 青年・孔明。二十七歳。

 

 隆中の隠者は死んだ。

 今、馬車に揺られているのは、乱世の海へと漕ぎ出す、一人の不敵な航海士である。

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