第三十話:龍の開眼
第三十話:龍の開眼
執筆:町田 由美
陽光が、廬(いおり)の古びた格子の隙間から差し込み、宙に舞う微細な埃を白金の色に染めていた。
私は、奥の小部屋で、静かに横たわっていた。
眠っていたのではない。
外の門前に、雪解けの泥を厭わず、一刻(いっとき)もの間、微動だにせず立ち続けている男の「鼓動」を、壁越しに感じていたのだ。
(……劉備、玄徳。……あなたは、何を待っている)
門を叩き壊し、私を引きずり出すこともできたはずだ。
あるいは、礼を欠いた私の態度に憤り、踵を返して去ることもできた。
だが、彼はそうしなかった。
彼はただ、そこに「在った」。
数多の戦に敗れ、領土を追われ、それでも「漢室復興」という、もはや呪いに近い理想を捨てきれぬ男の、その絶望的なまでの誠実さが、隆中の冷気を少しずつ塗り替えていくのを肌で感じた。
私はゆっくりと上体を起こした。
傍らには、月英殿が贈ってくれた羽扇(うせん)がある。
私はそれを手に取り、一度だけ自分の熱を鎮めるように扇いだ。
「……均。客人はまだか」
私の声に応じ、均が震える手で扉を開けた。
「兄様……。劉将軍は、もうずっと、あそこで……」
私は立ち上がり、衣の裾を整えた。
そして、運命の扉へと歩み寄った。
扉が開く。
眩い春の光の中に、一人の男が立っていた。
劉備。
その顔は、寒さと疲労で青白くなっていたが、私と目が合った瞬間、その瞳の奥に、凍土の下で眠っていた種が芽吹くような、強烈な「生命の光」が宿った。
「……拝見仕る。諸葛孔明殿。……新野の劉備、ようやく……ようやく、あなたにお会いできた」
劉備は、崩れ落ちるように膝をつき、深く頭を垂れた。
将軍としての威厳ではない。一人の、行き先を失った迷い子が、ようやく「道」を見つけた時のような、痛切なまでの帰依の姿だった。
「……お立ちください、将軍。……私はただの農夫。これほどの礼を尽くされる謂れはありません」
「いいえ、孔明殿。……私は、この乱世の闇の中で、何度も倒れ、何度も仲間を失いました。……そのたびに、私は自分の無知を、自分の無力を呪った。……今、私の目の前にあるのは、一介の書生ではない。……この腐りきった天下を、再び『理』によって照らし出すことのできる、唯一の星だ。……頼む、孔明殿。……この劉備を、民を、お救い願いたい!」
劉備の叫びが、隆中の竹林を震わせた。
私は、その震えを、自分の魂の深部で受け止めた。
私は無言で、彼を廬の奥へと招き入れた。
机の上には、これまで月英殿と語り合い、友人たちと論じ合い、叔父上の死を見届けてきた二十七年のすべてを注ぎ込んだ、一枚の地図が広がっている。
私は、羽扇をその地図の一点に置いた。
「……将軍。……今の天下は、曹操が天の時を得、孫権が地の利を得ております。……ですが、まだ誰も得ていないものがあります。……それは『人の和』です」
私は、地図の上を羽扇でなぞりながら、言葉を紡ぎ出した。
それは、少年の日のような理想論ではない。
血の匂い、金の動き、兵糧の重さ、そして民の涙の数までを計算し尽くした、冷徹で、かつ究極に温かな「救済」の設計図だった。
「荊州を占め、益州を領し、西と南を固めて天下の変を待つ。……これが、私の描く『天下三分の計』です。……将軍。……あなたがもし、この孤独な私を軍師として召されるならば。……私は、私の生涯のすべてを、あなたの『情』という器を満たすための『理』として捧げましょう」
劉備は、地図を食い入るように見つめていた。
彼の目から、大粒の涙が地図の上に落ちた。
それは、彼がこれまで歩んできた絶望の歳月が、初めて報われた瞬間の涙だった。
「……ああ、天が……天が、私に諸葛孔明を与えてくださった!」
劉備は、私の手を強く握りしめた。
その瞬間。
隆中の山に吹き荒れていた冬の風が、完全に止んだ。
そして、私の背後で見守っていた均が、そして工房で祈るように待っていた月英殿が、確信した。
青年・諸葛亮。二十七歳。
彼は今、少年の皮を脱ぎ捨てた。
隠遁していた龍が、ついにその重い瞼を開け、天下という名の戦場へ向かって、最初の一歩を踏み出した。
「……行きましょう、将軍。……地獄のその先にある、新しい夜明けまで」
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