​第三十二話:水魚の交わり

​第三十二話:水魚の交わり


​執筆:町田 由美


​ 新野の城門は、隆中の清廉な空気とは対極にある、鉄と汗と、そして「いつ終わるともしれない日常」への諦念に満ちていた。

 馬車が城内に入ると、練兵場から響く兵たちの怒号と、馬の嘶きが入り混じり、耳をつんざくような音の奔流となって押し寄せてきた。

​ 私は馬車を降り、新野の空を仰いだ。

 狭い。この城は、あまりにも狭い。

 劉備という男の器を収めるには、この城壁はあまりにも低く、脆すぎるのだ。

​ 「……兄者。ようやく戻ったか」

​ 低く、地を這うような重厚な声が響いた。

 見れば、城門の影から、身の丈九尺を越える大男が歩み寄ってくる。関羽、雲長。その手に持つ青龍偃月刀が、夕陽を反射して不気味な黄金色の光を放っている。

 その後ろからは、虎のような髭を蓄え、瞳に剥き出しの敵意を隠そうともしない張飛、翼徳が続いた。

​ 二人の視線は、劉備を通り越し、その背後に立つ私――羽扇を手に、涼やかな顔で立つ二十七歳の若造に集中した。

​ 「……これが、兄者が三度も足を運んで連れてきた『臥龍』か」

​ 張飛が鼻で笑い、私を指差した。

 「見たところ、ただのひょろ長い書生じゃないか。戦場に出れば、風に吹かれて飛んでいきそうな男だ。兄者、こんな奴に我らの命を預けるというのか?」

​ 関羽も、一言も発さず、ただ沈黙という名の重圧を私に浴びせてきた。彼の沈黙は、張飛の罵倒よりも重く、鋭い。

​ 「翼徳、言葉が過ぎるぞ。孔明殿は、私の師であり、この新野を救う唯一の光だ」

​ 劉備が厳しい口調で制したが、二人の不信感は消えない。

 私は、その不穏な空気の真ん中で、ゆっくりと羽扇を動かした。

 

 「……張将軍。風に吹かれて飛ぶのは、根を持たぬ草だけです。……私はこの新野に、曹操という嵐にも揺るがぬ『根』を張りに来たのです。……それとも、将軍方は、剣の腕だけで天下が動かせると本気でお考えか?」

​ 私の言葉に、張飛の顔が真っ赤に染まった。

​ 「なんだと! 貴様、俺の武勇を愚弄するか!」

​ 「愚弄などしておりません。ただ、武勇とは研ぎ澄まされた『刃』。それを振るう『腕』、つまり戦略がなければ、ただ自分を傷つけるだけの鉄屑に過ぎないと言っているのです」

​ 私は関羽の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。

 

 「関将軍。……あなたは『春秋左氏伝』を好まれると聞く。ならば、知っておられるはずだ。国を滅ぼすのは、敵の強さではない。内なる秩序の崩壊であることを。……今、この新野に必要なのは、一人の勇者ではなく、万民を一つの意志で動かす『仕組み』です」

​ 関羽の鳳凰のような目が、わずかに見開かれた。

 

 劉備は、私たちの間に割って入り、高らかに笑い声を上げた。

 

 「ははは! 孔明殿、やはり貴殿は面白い。……雲長、翼徳。私は孔明殿を得た。それは、魚が水を得たようなものなのだ。これからは、孔明殿の言葉を私の言葉と思え。よいな!」

​ 劉備の言葉は絶対だった。

 だが、二人の背中は、納得とは程遠い強張りを帯びたまま、足早に去っていった。

 

 その夜、私は劉備が用意してくれた一室で、独り、新野の勢力図を広げた。

 月英殿から贈られた羽扇を机に置き、私は深い溜息を吐いた。

 

 (……水、ですか。……将軍、水は時として、岩をも砕く激流となりますよ)

 

 私は、一本の地図の上に、朱い筆で線を引いた。

 それは、曹操の十万の軍勢が新野へとなだれ込んでくるであろう、侵攻ルート。

 

 理(ことわり)が初めて現実の軍勢を焼き払う「火計」の準備。

 新野の平和な夜が、私の脳内ではすでに、紅蓮の炎に包まれていた。

 

 青年・孔明。

 彼が軍師として最初に行うべきは、戦場を支配することではない。

 自分を信じぬ武将たちの心を、その「圧倒的な正解」によって、完全に服従させることだった。

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