第二十八話:賢者の咆哮
第二十八話:賢者の咆哮
執筆:町田 由美
一度目の訪問から数日が過ぎ、隆中の空には再び厚い雲が垂れ込めていた。
雪は止んだが、代わりに冷たい雨が地面を叩き、道は黒々とした泥の川へと変わっていた。
私は、廬(いおり)の軒先に立ち、山を下っていく崔州平(さいしゅうへい)と石広元(せきこうげん)の背中を見送っていた。
彼らには、ある「役割」を頼んでいた。
「孔明。……お前は性格が悪いな。あの劉玄徳を、我々を使って試そうというのか」
州平は去り際にそう笑ったが、その瞳には親友の企てに対する隠しきれない期待が宿っていた。
果たして、山道の向こうから、再び三騎の影が現れた。
劉備は、一度目よりもさらに深く、泥に汚れながらも、その瞳から輝きを失っていなかった。
だが、その行く手を阻むように、州平と広元が道の真ん中で酒を酌み交わし、大声で詩を吟じ始めた。
「――天下は乱れ、聖賢は隠れ、野にはただ骨が散るのみ。……劉項(劉邦と項羽)の争い、今は何処……」
わざとらしいほどに世を拗ねた、隠者たちの放歌。
劉備は馬を止め、丁寧に一礼して問いかけた。
「……失礼ながら。貴公らは、諸葛孔明殿のご友人ではござらぬか。……私は新野の劉備。再び臥龍先生を訪ねに参ったのだが、先生は今、どちらにおられるか」
州平は、酒杯を掲げたまま、劉備をじろりと一瞥した。
「玄徳殿か。……孔明なら、今朝、空の雲を追いかけて何処かへ消えた。……あいつは、お前さんのような『現実』を背負った男に会うのを、何よりも嫌がる。……お門違いだ。帰りなされ」
広元も、鼻で笑って続けた。
「左将軍ともあろうお方が、こんな山奥で油を売っている暇があるのか――」
その時だった。
劉備の背後に控えていた、名もなき一人の兵が、無意識に半歩、前に出かけた。
拳が震えている。
怒りではない。
主君が侮られる光景を、ただ見続けることへの、耐え難い居心地の悪さだった。
だが、劉備は振り返らなかった。
何の合図も、制止の言葉もない。
兵は、自分の震えが、誰にも必要とされていないことを悟り、
そっと、元の位置へと戻った。
関羽の眉が、ピクリと跳ねた。張飛は、今にも蛇矛を抜き放たんばかりに、拳を握りしめている。
だが、劉備は動じなかった。
「……左様か。……諸賢の仰る通り。……私は確かに、無駄な足掻きをしている愚か者かもしれぬ」
劉備は、泥にまみれた地面に、自ら降り立った。
「だが、私は信じているのだ。……この乱世の霧を晴らすのは、私の武力でも、曹操の権力でもない。……臥龍先生がその胸に秘めている『理』だけなのだと。……それを手に入れるためなら、私は何度でも、この泥の中を歩いてくる」
劉備は、嘲笑を浴びせ続けた州平たちの前で、さらに深く頭を下げた。
その光景を、私は竹林の奥、月英殿の工房の窓からじっと見守っていた。
(……州平、広元。……お前たちの毒舌すら、彼の器は飲み込んでしまうのか)
劉備が放つ「徳」とは、単なる優しさではない。
それは、他者の悪意や嘲笑をすべて受け入れ、それを自分を支える「力」へと変換してしまう、恐るべき精神のブラックホールだ。
私は、月英殿が作った「連弩(れんど)」の試作品を、そっと手で撫でた。
「……月英殿。……あの人は、私が望んだ通りの『狂気』を持っているようだ」
「……ええ。……ですが、孔明様。……あの火を受け入れれば、あなたの静かな隆中の夜は、もう二度と戻ってはきませんよ」
月英殿の声は、予言のように響いた。
二度目の訪問も、すれ違いに終わった。
劉備は、収穫なく山を下っていった。
だが、その背中を見送る私の心の中では、すでに、ある「地図」の輪郭が、激しい火を噴きながら完成に向かっていた。
青年・孔明。二十七歳。
三度目の訪問。
そこでは、もはや隠れることも、試すことも許されない。
「知」と「情」が、この隆中の雪解けとともに、真っ正面からぶつかり合うことになる。
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