第二十七話:冬の蹄音

​第二十七話:冬の蹄音


​執筆:町田 由美


​ 隆中の冬は、すべてを白く、そして静かに塗り潰していく。

 朝、井戸から汲み上げた水が、桶の中で一瞬にして薄氷を張るような、刺すような寒さ。

 私は、廬(いおり)の奥で、月英殿が遺していった火鉢に炭を継ぎ足していた。

​ 「兄様。……外の坂道を、数騎の馬が登ってくる音がするよ」

​ 庭先で薪を割っていた均(きん)が、手を止めて首を傾げた。

 彼の耳が捉えたのは、日常の農夫たちの足音ではない。鍛え抜かれた軍馬が、重い鎧を纏った武人を乗せて土を叩く、あの独特の、心臓に響くようなリズムだ。

​ (ついに、来たか……)

​ 私は、筆を置いた。

 机の上には、いまだ完成を見ぬ「天下三分の計」の草案が広げられている。

 だが、私はそれを隠そうとはしなかった。

 

 「均。……もし、誰かが私を訪ねてきたら、こう言いなさい。……『主人は友人を訪ねて旅に出ました。いつ戻るかは分かりません』と」

​ 「え? 兄様、あんなに会いたがっていた徐庶さんのお仲間かもしれないのに?」

​ 「……会いたいのではない。……確かめたいのだ。……彼が、私の『理』を背負うだけの、底知れぬ器を持っているのか。それとも、ただの、喉を潤したいだけの焦った旅人なのかを」

​ 私は立ち上がり、裏口から竹林の奥へと姿を消した。

 

 数刻後。

 隆中の静寂を真っ向から切り裂くように、力強い声が門前に響き渡った。

​ 「拝謁を願う! 漢の左将軍、宜城亭侯、領豫州牧、皇叔・劉備である!」

​ その声は、空気を震わせ、廬の茅葺き屋根に積もった雪を僅かに躍らせた。

 

 門の外には、三人の男が立っていた。

 中央には、長く豊かな耳たぶと、静かだが奥底に尽きぬ情熱を湛えた瞳を持つ、劉備。

 右には、鳳凰のような目を細め、身の丈を超える青龍刀を杖のように突き、威風堂々と立つ関羽。

 左には、虎のような髭を蓄え、寒さを物ともせず、苛立ちを隠そうともしない張飛。

​ 彼らがそこに立っているだけで、隆中の清廉な空気は、戦場の砂塵と、流れた血の記憶、そして「生きたい」と願う民の執念が混じり合った、濃厚な「生」の匂いに上書きされていく。

​ 「……申し訳ございません。主人は、旅に出ておりまして」

​ 均が、教えた通りに震える声で応じる。

 張飛が、雷のような声を上げた。

​ 「旅だと? この大雪の中に、わざわざ新野から足を運んだ兄者を、門前払いにしようというのか! ……おい、小僧、隠しているなら今すぐ引きずり出せ!」

​ 「翼徳、控えよ」

​ 劉備が、静かに、しかし抗えぬ威厳を持って弟を制した。

 

 劉備は、一度だけ、閉ざされた廬の扉をじっと見つめた。

 その視線は、壁を透かし、竹林の陰に潜む私の存在を、真っ直ぐに射抜こうとしているかのようだった。

 

 「……そうか。お留守か。……なれば、やむを得ぬ。……また日を改めて、お伺いしよう。……諸葛亮殿によろしく伝えてくれ。……漢室の衰微を憂う、一人の男が訪ねてきたとな」

​ 劉備は、深く、丁寧に一礼をした。

 その動作には、一欠片の慢心も、偽りの卑下もなかった。

 ただ、自分の「誠実さ」という唯一の武器を、氷点下の空気の中に、静かに置くような、そんな重みがあった。

​ 馬たちが去っていく蹄の音が、再び雪の中に吸い込まれていく。

 

 私は竹林の影から、彼らの背中を見送った。

 

 「……劉備、玄徳」

 

 私の唇から漏れた名前は、白く凍りつき、地面に落ちた。

 

 一度目の訪問。

 それは、私の「理」が、彼の「情」と初めて接触した瞬間だった。

 だが、まだ足りない。

 

 私の人生を、叔父上の遺志を、そして月英殿と誓った未来を預けるには、まだ、彼の「絶望」が足りない。

 

 青年・孔明。二十七歳。

 

 彼は再び、静寂の中へと戻った。

 次の雪が、この隆中をさらに深く、厳しく閉ざすその時まで。

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