第二十六話:新野の渇き
第二十六話:新野の渇き
執筆:町田 由美
隆中の平穏が、私の意図とは無関係に、外界の熱に侵され始めていた。
庭先に植えた桑の木が、春の陽光を浴びて青々と繁っている。だが、その葉を揺らす風は、北からやってくる軍馬の嘶きを、微かに、しかし確実にはらんでいた。
一方、隆中から北へ数十里。
新野(しんや)という、荊州の北端に位置する小さな拠点。
そこでは、一人の男が、自らの「限界」という名の壁を、血の出るような思いで叩き続けていた。
「……元直(徐庶)。……私は、いつまでここで、この小さな空を見上げ続けていなければならないのだ」
劉備、玄徳。
彼は、自らの髀(もも)に付いた贅肉を忌々しげにさすりながら、酒を煽った。
かつて天下を馳け、曹操と対等に語り合ったこともある彼にとって、劉表の「居候」として、いつ攻め滅ぼされるかもわからぬ最前線に置かれている現状は、死よりも辛い屈辱だった。
「……主公。……器は、中身が満たされるのを待っているのです」
傍らに控える徐庶が、静かに答えた。
「中身だと? ……兵か? 馬か? ……それとも、金か?」
「いいえ。……『目(まなこ)』です。……この乱世の霧を、一瞬で晴らすことのできる、透徹した智慧。……それこそが、今の主公に欠けている最後の欠片(かけら)です」
劉備は杯を置き、徐庶を凝視した。
その瞳には、老いへの恐怖と、消えぬ野心が混じり合い、煮えたぎるような熱量を持って輝いている。
「……臥龍(がりょう)。……お前が語る、その少年のことか」
「少年ではありません。……あれは、化身です。……『法』という名の冷徹な刃と、『天下』という名の巨大な盤面を、同時に操る怪物。……諸葛孔明という男を得ぬ限り、主公は永遠に、この新野の泥の中に留まることになるでしょう」
劉備は立ち上がり、暗い執務室の中を、獣のように歩き回った。
外では、関羽と張飛が、兵たちの練兵を指揮する怒号が聞こえる。
彼らという最強の武勇を持ちながら、なぜ自分は、未だに「王」になれないのか。
なぜ、曹操という巨人の影に、怯え続けなければならないのか。
「……徐元直。……私は、その少年に、会わねばならん」
「主公……。しかし、臥龍は、こちらから招いて来るような男ではありません。……主公が、自ら出向く必要があります」
「ふん、この劉備に、一介の書生を訪ねろと言うのか」
劉備は不敵に笑った。
その笑みは、誇り高い英雄のそれではなく、自分の人生を懸けた最後のギャンブルに打って出る、勝負師の笑みだった。
「……いいだろう。……もし、その男が本当に私の『目』になるのなら、この首さえ差し出して構わん」
時代の足音が、隆中の土を叩き始めた。
私は、隆中の廬(いおり)で、月英殿が作ってくれた新しい筆を執っていた。
窓の外、竹林の隙間から見える空が、不自然に澄んでいる。
(……来たか)
私は、誰に言うでもなく呟いた。
地図の上に置かれた「新野」という駒が、目に見えぬ力に弾かれ、隆中へと向かって滑り出したのを、私は魂の奥底で感じ取っていた。
青年・孔明。二十七歳。
「得体の知れない情熱」が、私の「静謐なる理」を壊しに来る。
その激突まで、あと、わずか数刻。
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