第二十五話:風の約束

第二十五話:風の約束


​執筆:町田 由美


​ 徐庶(じょしょ)が去った後の隆中には、夕闇が墨を零したように深く沈み込んでいた。

 私は一人、縁側に座り、夜の冷気に身を晒していた。

 

 徐庶が持ち込んできた「劉備」という名の熱量。

 それが、私の平穏な思索の池に、避けては通れぬ大きな波紋を広げている。

 

 「――孔明様。まだ、そんな薄着で外にいらっしゃるのですか」

 

 背後から、衣擦れの音と共に、月英(げつえい)殿が姿を現した。

 彼女の手には、一本の蝋燭と、まだ温かみの残る厚手の羽織があった。

 彼女は私の肩にそっと羽織をかけると、私の隣、一段低い板間に腰を下ろした。

 

 「元直(徐庶)殿が来られたのですね。……彼の足跡が、まだこの庭の土に熱を持って残っています」

 

 「月英殿。……あなたは、すべてを見透かしている」

 

 私は、自分の指先を見つめた。

 

 「彼は、私を連れ出しに来ました。……私の『理』が、この狭い隆中の山を越え、血塗られた天下の平原へと解き放たれる時が来たのだと。……そう告げに来たのです」

 

 月英殿は、揺れる蝋燭の炎をじっと見つめていた。

 その横顔は、どの聖賢の書に描かれた英知よりも、私にとっては美しく、そして切実な真実を宿していた。

 

 「……行かれるのですね。……風が、南から吹き始めています」

 

 「……ええ。ですが、私は恐ろしい。……私の描く『天下三分の計』は、地図の上に引かれた線に過ぎません。……その一本の線の下で、何万という人々が居場所を失い、血を流すことになる。……私は、その命の重さに、私の細い筆が耐えられるかどうかを、問い続けているのです」

 

 月英殿は、私の掌を、そっと自分の手で包み込んだ。

 彼女の掌は、鉄や木を扱っているために少し硬く、けれど、私の冷え切った指先を溶かすほどに温かかった。

 

 「孔明様。……あなたが線を引かなければ、民はどこへ歩いていけばいいのかさえ分からず、ただ闇の中で殺し合うだけです。……一本の線は、呪いではなく、道しるべです。……血を流すことを恐れるあなただからこそ、その血の代わりに流れるはずだった涙を、最小限に食い止めることができるのです」

 

 彼女は、懐から一つの小さな、精巧な木の細工を取り出し、私の手に握らせた。

 それは、二つのパーツが複雑に組み合わさり、決して解けない「知恵の輪」のような形をしていた。

 

 「これは、私とあなたの約束です。……あなたが天下の軍勢を動かす時、私はここで、あなたの帰る場所を守ります。……あなたが法で国を支える時、私はここで、民の生活を支える『道具』を磨き続けます。……私たちは、二人で一つの『理』なのですから」

 

 

 

 「二人で、一つ……」

 

 私は、その言葉を反芻した。

 叔父上の死以来、私の心の中にあった、あの一人ぼっちの「星」の孤独。

 それが、月英殿という「風」と交じり合い、今、ようやく誰かを温めるための「火」として、この胸に定着したのを感じた。

 

 「……月英殿。……あなたがいてくれれば、私は、地獄まで歩いていける気がします」

 

 「地獄ではありません。……あなたが作る、新しい天の扉までですよ、孔明様」

 

 月英殿は微笑んだ。その瞳の奥には、これから訪れるであろう激動の数十年を見据えたような、静かな覚悟があった。

 

 夜が明けてくる。

 隆中の霧が、朝日を受けて透明な真珠のように輝き始めた。

 

 青年・孔明。二十七歳。

 黄月英との、魂の契約。

 それは、ただの婚姻以上の重みを持ち、歴史という巨大な船が、その帆を大きく広げるための合図となった。

 

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