第二十三話:静寂の亀裂

​第二十三話:静寂の亀裂


​執筆:町田 由美


​ 均(きん)が持ち込んだ報せは、隆中の空気を一瞬にして凍りつかせた。

 劉表様の病。それは、荊州という巨大な「水溜り」に、一つの石が投げ込まれたことを意味する。表面上の波紋が広がるのは一瞬だが、その底に溜まった泥――後継者争い、曹操への内通、そして民の不信――が巻き上がるのは、これからだ。

​ 「……兄様、どうするの? 襄陽の街は、もう兵たちが慌ただしく動き回っているって。この隆中も、いつ巻き込まれるか……」

 

 均の声は震えていた。かつて徐州で見た、あの地獄のような略奪の記憶が、彼の中で呼び覚まされているのだろう。

 私はゆっくりと立ち上がり、机の上に広げたままの、月英殿との計算が書かれた木簡を、一枚ずつ丁寧に重ねた。

 

 「均、落ち着け。……曹操はまだ、すぐには来ない。彼が恐れているのは、荊州の軍勢ではない。荊州が『誰の手によって、どのようにまとまるか』だ」

 

 私は工房の窓を開けた。

 そこには、変わらぬ隆中の竹林が広がっている。だが、その向こう側――北の空からは、目に見えぬ「重圧」が押し寄せてきているのを感じた。

 

 「孔明様」

 

 月英殿が、私の傍らに立った。

 彼女の手には、先ほどまで弄んでいた小さな木の模型ではなく、一本の鋭いノギスが握られていた。

 

 「あなたが描いた『天下三分の計』。……その最初の歯車が、狂い始めましたね。……劉表様が倒れれば、荊州は内側から腐ります。……あなたが守ろうとしている『法』が、生まれる前に踏みにじられてしまう」

 

 「……ええ。ですが、月英殿。……これは、試練でもあります」

 

 私は、地図の上の「新野(しんや)」という一点に目を落とした。

 そこには、今、一人の男が駐屯している。

 

 劉備、玄徳。

 

 「彼は、荊州のどの有力者よりも『情』を持ち、どの権力者よりも『地盤』を持たない。……曹操という巨大な『冬』が来る前に、この荊州の民を救うための器(うつわ)が必要だ。……しかし、今の彼はまだ、自分が何者であるべきか、その形を見つけられずにいる」

 

 「……その形を、あなたが与えるのですか?」

 

 「……私が与えるのは、形ではありません。……『覚悟』です」

 

 その夜、私は眠らなかった。

 一本の蝋燭が燃え尽きるまで、私は襄陽、江陵、そして北の許都へと繋がる情報の糸を脳内で紡ぎ直した。

 

 不意に、廬の門を叩く激しい音が響いた。

 

 「孔明! 諸葛孔明はおるか!」

 

 現れたのは、息を切らした崔州平(さいしゅうへい)だった。

 彼の衣は泥に汚れ、その瞳にはかつての不遜な輝きではなく、剥き出しの「恐怖」が宿っていた。

 

 「街はもう駄目だ! 劉表様の後継を巡って蔡氏(さいし)が動き出した。曹操に降伏するという噂も流れている。……俺たちの『議論』なんて、何の役にも立たなかったんだ! 孔明、お前はどうする! このまま、この山の中で歴史の塵になるのか!」

 

 私は、州平の肩を強く掴んだ。

 その手のひらを通じて、私の内側にある、あの「凍てつくような静寂」を彼に分け与えるように。

 

 「州平、座れ。……茶を飲め。……死にゆく時代のために、生きているお前が騒ぐ必要はない」

 

 私の声のあまりの冷たさに、州平は息を呑んだ。

 

 「……お前、怖くないのか? 曹操が来れば、この隆中だって……」

 

 「怖い、という感情には質量がありません。……質量のないものに、私の知恵を割くつもりはない。……州平。お前に頼みがある。……明日、襄陽の市場へ行き、ある『詩』を流行らせてほしい」

 

 「詩……? この期に及んで、詩だと?」

 

 「そうだ。……『梁父吟(りょうほぎん)』だ」

 

 私は、暗闇の中で微かに微笑んだ。

 それは、少年の日のような清廉な笑みではなく、乱世という巨大な盤面に、最初の一駒を打つ「策士」の笑みだった。

 

 「この詩が、一人の男の耳に届くのを待つ。……その時、私の二十年に及ぶ『隠遁』は終わる」

 

 隆中の夜が明けていく。

 霧の彼方から、馬の嘶きと、鉄と鉄が触れ合う音が聞こえてきた。

 

 青年・孔明。二十六歳。

 彼が自らの手で静寂を破り、天下という名の暴風雨へと足を踏み出すまで、あとわずか。


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