第十九話:連環の理
第十九話:連環の理
執筆:町田 由美
隆中の廬(いおり)の庭に、かつてなかった「音」が響き始めた。
木材を叩く乾いた鎚の音。複雑に組み合わさった木の歯車が、噛み合い、軋み、そして滑らかに回り出す音。
「……そこ。その楔(くさび)が、わずかに一分(いちぶ)だけ深すぎます」
月英の声が、私の耳元で冷静に響く。
私は彼女に言われた通り、小刀を入れ、木片の厚みを削り取った。
彼女が持ってきた設計図は、私の想像を遥かに絶するものだった。
牛や馬という生物の力に頼らず、地形の勾配や人力の反復を利用して重い荷を運ぶ「木牛(ぼくぎゅう)」。それは、叔父上が死んだあの泥濘の道であっても、兵糧や物資を届けることができるという、魔法のような器械だった。
「孔明様。あなたは『法』によって国を整えるとおっしゃいました。……ですが、法が機能するためには、それを支える『流れ』が滞ってはなりません」
月英は、脂の乗った杉の木片を指でなぞりながら、続けた。
「飢えた民に『法を守れ』と言っても、それは空虚な響きにしかなりません。……法よりも先に、一粒の米を、一通の便りを届ける。……この器械は、そのための足なのです」
私は、その言葉を反芻した。
彼女の知性は、私のように高みから天下を見下ろすものではなく、大地に這いつくばり、一人の人間の生活を物理的に支えようとする強さを持っていた。
「……月英殿。……私は、自分の知恵が少し恥ずかしくなりました」
「恥ずかしい? なぜです」
「私は、地図の上に線を引くことばかり考えていた。……だが、その線の上を歩くのは、血の通った人間なのだということを、忘れていたわけではないが……どこか、数字のように扱っていたのかもしれない」
私は完成しかけた木牛の脚部を見つめた。
月英という人は、私が見落としていた「人間という質量」を、木と鉄の結合の中に具現化してみせたのだ。
その日から、私たちの共同作業は夜を徹して続いた。
均が持ってくる薄い茶を啜り、私たちは一つの歯車の遊び、一つのネジの締め具合を巡って、幾晩も語り合った。
それは、恋と呼ぶにはあまりにも禁欲的で、友情と呼ぶにはあまりにも魂の深部で繋がる時間だった。
「孔明様。……もし、あなたが天下の理を完成させた時、この木牛は、戦のためではなく、ただ民の畑を耕すために使われるでしょうか」
月英が、ふと手を止めて問いかけた。
蝋燭の炎が、彼女の瞳の中に小さな火を灯している。
「……そうしなければならない。……戦を終わらせるために、私は法と知略を用いる。……だが、その果てにあるのは、器械がただの道具に戻り、知恵がただの教養となる世だ。……私は、その日のために、今この歯車を刻んでいる」
月英は、小さく、満足そうに微笑んだ。
隆中の春は深まり、廬を囲む竹林が風に鳴る。
青年・孔明の心の中にあった「冷たい星」に、月英という灯火が寄り添ったことで、彼の「理」は冷酷さを超え、慈しみを帯びた真実の「治世」へと進化を遂げようとしていた。
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