第十八話:水鏡の影
第十八話:水鏡の影
執筆:町田 由美
隆中に春が訪れても、私の生活が変わることはなかった。
土を耕し、本を読み、夜には均(きん)と向かい合って質素な粥を啜る。
だが、私を取り巻く「空気」だけが、僅かな熱を帯びて変質し始めていた。
「――孔明。襄陽の街では、お前のことが『臥龍(がりょう)』と呼ばれ始めているぞ」
廬の縁側で、司馬徽(しばき)――水鏡先生が、悪戯っぽく微笑みながら竹簡を手放した。
先生は時折、ふらりとこの山奥までやってきては、私が書いた覚書や、友と交わした論の断片を、まるで宝探しでもするかのように読み耽っていく。
「臥龍……伏せている龍、ですか。私を買い被りすぎです、水鏡先生。私はただ、この土の下で蠢く虫のようなもの。天下を飛ぶ羽など、持ってはおりません」
私は筆を置かず、淡々と答えを返した。
私の言葉には、謙遜ではなく、冷徹な自覚があった。
今の私には、まだ足りない。
歴史を動かすための「大義」も、それを支える「人」も、何一つとして手元にはないのだ。
「ふむ。……虫か。だが、地中の虫が動けば、やがて大地にひびが入り、巨大な山さえも崩れることがある。……お前が夜な夜な書き溜めているその『地図』。それは、誰に見せるためのものだ?」
先生の鋭い視線が、私の机の上に広げられた一枚の羊皮紙に注がれた。
そこには、現在の州界や軍勢の配置ではなく、山河の流れ、気候の変動、そして民の移動の痕跡が、緻密な朱線で描かれていた。
それは単なる地図ではなく、この大陸が持つ「呼吸」を可視化したものだ。
「……誰のためでもありません。……ただ、叔父上の敵を、見定めたいだけです」
「叔父上の敵? ……誰のことか?」
私は頭を振った。
「敵とは、ただの現象に過ぎません。……叔父上を、そして数万の民を殺したのは、この世界が持っている『無秩序』という名の病そのものです。……私は、その病の正体を知りたい。どこにメスを入れれば、この腐った肉を切り落とせるのか。それを知るまでは、私は龍にも、虫にもなれぬまま、ここで朽ちるつもりです」
私の言葉を聞き、水鏡先生は深いため息を吐いた。
その溜息は、かつて廃廟で出会ったあの老人が漏らしたものと、どこか似ていた。
「……孔明。お前はあまりにも潔癖だ。そして、あまりにも残酷だ。……自分自身に対しても、な」
先生は立ち上がり、廬の入り口に目をやった。
そこには、一人の少女が、重そうな竹簡の束を抱えて立っていた。
私の友人たちが連れてきたのか、それとも先生の弟子か。
「紹介しよう。……黄承彦(こうしょうげん)の娘だ。名は月英(げつえい)。……彼女もお前と同じく、この世界の『仕組み』に憑りつかれた、風変わりな魂を持っている」
私は初めて、作業を止めて顔を上げた。
少女――月英の瞳には、隆中の朝霧を透かしたような、深く、底の見えない知性の光が宿っていた。
彼女が抱えていた竹簡の束の一番上に、私は見覚えのある図面を見つけた。
それは、複雑な歯車と連動する「木牛流馬(ぼくぎゅうりゅうば)」の、まだ荒削りな原型となる設計図だった。
(……この人は、知っている)
直感した。
彼女は、私の語る「理」を、机上の空論ではなく、形ある「器械」へと変える力を持っている。
私の孤独な思索に、初めて「具体」という名の光が差し込んだ瞬間だった。
「……諸葛亮様。……あなたの描く地図には、道が足りません。……泥の中でも、病の中でも、確実に物資を運ぶための『足』が。……それがあれば、あなたの法は、初めて血肉を得るはずです」
月英の声は、鈴を転がすような美しさではなく、研ぎ澄まされた鋼のような響きを持っていた。
隆中の静寂の中に、新たな歯車の音が混じり始める。
青年・孔明の成長は、今、一人の「共鳴者」を得たことで、かつてない加速を見せようとしていた。
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