第十七話:隆中放談

​第十七話:隆中放談


​執筆:町田 由美


​ 隆中の冬は、骨まで凍てつくような冷気と共にやってくる。

 だが、私の廬(いおり)の中だけは、炭の爆ぜる音と、熱を帯びた言葉の応酬で、不思議な熱気に満たされていた。

​ 「――甘いな、孔明」

 

 崔州平(さいしゅうへい)が、温められた酒を無造作に喉へ流し込み、杯を卓に叩きつけた。

 「お前は『法』によって天下を律すると言うが、人の心は水のようなものだ。器がどれほど堅牢でも、水そのものが腐っていれば、それはただの毒を溜める器に過ぎん。今、この大地に流れているのは血と欲だ。法などという薄っぺらな紙で、誰が救える?」

 

 卓を囲んでいるのは、崔州平だけではない。

 冷静な眼差しで私を観察する石広元(せきこうげん)、そして快活な笑みを浮かべながらも、その奥に鋭い批判を隠し持った孟公威(もうこうい)。

 

 彼らはみな、襄陽の安穏に飽き足らず、この辺境の山奥に住まう私という「奇人」を、ある種の鏡として使いに来ているのだ。

 

 私は、手元の古い竹簡から目を上げ、ゆっくりと崔州平を見据えた。

 

 「州平。水が腐っているというのなら、なおのこと、その流れを導く『溝』が必要だとは思わないか。溝がなければ、水はただ溢れ、土を汚し、民を飲み込む。……私が求める法は、人を縛る鎖ではない。人が、人でいられるための最後の『境界線』だ」

 

 「境界線だと?」

 石広元が口を挟む。

 「孔明、お前は常に理想を語るが、現実はどうだ。この荊州の、なんと脆いことか。劉表殿が死ねば、この静寂は一瞬で吹き飛ぶ。その時、お前の言う『法』は、誰を守ってくれるのだ」

 

 一瞬、廬の中の空気が重く沈んだ。

 

 外では、乾いた冬の風が茅葺の屋根を揺らし、木々が悲鳴のような音を立てている。

 私は、叔父上が死んだあの夜のことを思い出していた。

 あの時、私を拒んだ門。あの時、私から剣を奪った船頭。

 彼らが恐れていたのは、敵の軍勢ではない。

 「明日、自分が生きていられるかどうかわからない」という、寄る辺なき不安だった。

 

 「……守ってみせる。誰であってもだ」

 

 私の言葉は、低く、しかし廬の四隅まで浸透するように響いた。

 

 「広元。お前の言う通り、軍勢は強い。だが、力による統治は、さらなる力を呼ぶだけだ。……私は、武力の上に立つのではなく、武力を制御する『仕組み』を望む。……この荊州が、ただの逃げ場ではなく、天下を再生させるための『種』となる。そのための策を、私は今、この土を耕しながら練り上げているのだ」

 

 「ははは! 相変わらずだな、お前は」

 孟公威が膝を叩いて笑い出した。

 「土を耕す手が、天下の地図を描いているというわけか。……だが孔明、お前がいつまでもその鋤を捨てなければ、天下はお前を見つけることさえできんぞ」

 

 「見つけられるのを待つつもりはない」

 

 私は杯を取り、一口だけ酒を含んだ。

 喉を焼くような酒精の感覚が、思考をさらに透明にする。

 

 「天下が私を必要とする時、世界は私を探さざるを得なくなる。……それまで、私はここで鱗を磨く。……州平、お前が言う『腐った水』を、私はいつか、この隆中から湧き出る清流に変えてみせる」

 

 友人たちは、一瞬、呆気に取られたように私を見た。

 私の瞳の中に、十三歳の時に見た「あの青い星」が、さらに冷たく、鋭く輝いているのを見たのかもしれない。

 

 その夜、彼らが去った後。

 私は一人、燃えさしとなった炭を見つめながら、筆を執った。

 

 彼らとの議論は、私の「理」を研ぐ砥石となった。

 自分とは違う視点、違う絶望。それらを取り込むたびに、私の描く「天下三分の計」の輪郭が、少しずつ、しかし確実に色濃くなっていく。

 

 (まだだ……まだ、この策には血が通っていない。……人を動かすための『情』が足りない)

 

 私は、真っ暗な外の闇を見つめた。

 遠くで、獣の遠吠えが聞こえる。

 

 青年・諸葛亮の冬は、まだ始まったばかりだった。

 だが、その冷気の中で、彼の知性はすでに、誰にも触れられぬほどの高みにまで昇り詰めようとしていた。

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