第十六話:隆中の朝霧

第十六話:隆中の朝霧


​執筆:町田 由美


​ 襄陽の城壁の内に留まることを、私は選ばなかった。

 劉表様が与えてくれた、安全で、清潔で、退屈な「客分」という席。そこは、叔父上が命を賭けて手に入れた場所であったが、今の私にとっては、魂が腐りゆくための檻に過ぎない。

 

 私は、襄陽から少し離れた西の山間、隆中(りゅうちゅう)と呼ばれる土地に、均(きん)と共に小さな廬(いおり)を構えた。

 

 朝、まだ鳥さえも鳴き始める前のことだ。

 隆中の森は、乳白色の深い霧に包まれる。

 私は、夜明けの冷たい空気を深く吸い込み、鋤(すき)を握った。

 

 「兄様……また、畑へ?」

 

 茅葺きの家から、成長して声変わりを始めた均が顔を出す。

 私は無言で頷いた。

 

 私の指先には、ペンだこではなく、土を耕す者の硬い豆ができている。

 なぜ、学ぶべき才能を持つ者が、土を弄るのか。

 襄陽の学舎に通う若者たちは、私を「奇人」あるいは「落ちぶれた名門の子」と呼び、冷笑を浴びせた。

 

 だが、彼らにはわからないのだ。

 

 一振りの鋤が、土を切り裂く感触。

 一粒の種が、死に絶えたような冬の土の中で、どのように命を繋ぎ、芽吹くのか。

 その「命の理」を知らずして、どうして万民の命を御する「政治」を語ることができようか。

 

 ガチリ、と鋤が地中の石を打つ。

 その衝撃が、腕を伝って脳裏を揺らす。

 そのたびに、私は思い出すのだ。

 叔父上の遺体が、どれほど冷たく、この土に溶け込んでいったかを。

 

 (土は、嘘をつかない)

 

 人は裏切る。法は、権力者の都合で歪む。

 だが、耕した分だけ土は実りを与え、怠った分だけ雑草が地を覆う。

 

 私は、鋤を置き、まだ霧の晴れぬ山並みを見渡した。

 隆中の空気は、常に静寂に満ちている。

 だが、この静寂こそが、私の「思考」を最も研ぎ澄ませてくれた。

 

 昼間は土を耕し、自らの食い扶持を稼ぐ。

 そして夜、静まり返った廬の中で、一本の蝋燭を灯し、私は「古の知」と対峙する。

 

 孔子の説く「仁」、老子の説く「無」、そして韓非子が説く、峻厳なる「法」。

 私はそれらを、単なる知識として飲み込むことはしなかった。

 文字の一つひとつを、今この隆中の土の匂いの中で咀嚼し、あの徐州の地獄に当てはめてみる。

 

 「……この一節は、あの時、門を閉ざした役人の心に届くだろうか」

 

 「この策は、略奪に走る民を救い、踏みとどまらせる力があるだろうか」

 

 答えが出ない夜は、何度もあった。

 そんな時、私は暗闇の中で自分の掌を見つめる。

 叔父上の印綬を握りしめていたあの日、私は確かに「星」になると誓った。

 

 星は、昼間は見えない。

 だが、太陽が去り、世界が真実の闇に包まれた時、初めてその輝きを放つ。

 

 「……まだだ。まだ、私の光は、この霧を突き抜けるほどには強くない」

 

 私は、再び鋤を取り、冷たい土に打ち込んだ。

 一回。また一回。

 それは、私の内側に「忍耐」という名の城壁を築き上げるための、果てしない儀式であった。

 

 青年・諸葛亮の、これが日常。

 華やかな襄陽の社交界から切り離されたこの場所で、後の天下を揺るがす「龍」は、静かに、しかし着実にその鱗を硬く、鋭く、磨き上げていた。

 

 不意に、霧の向こうから、一人の男の笑い声が聞こえてきた。

 

 「――おい、孔明。また土をいじめておるのか。お前のその鋤使いでは、天下の土をすべて掘り起こす前に日が暮れてしまうぞ」

 

 声の主は、崔州平(さいしゅうへい)。

 私の孤独な隠遁生活に、最初に足を踏み入れた「友」の一人であった。

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