第十五話:襄陽の静寂

​第十五話:襄陽の静寂


​執筆:町田 由美


​ 襄陽(じょうよう)の城門をくぐった瞬間、私は眩暈を覚えた。

 そこには、これまで見てきた泥や血、腐敗した死臭など微塵も存在しなかった。

 

 道は平坦に舗装され、行き交う人々は清潔な絹の衣を纏い、市場からは芳醇な酒と焼きたての餅(ピン)の匂いが漂ってくる。

 耳を打つのは、絶望の悲鳴ではなく、子供たちの笑い声と、遠くの学舎から聞こえてくる論語の唱和だった。

 

 (ここは……本当に、同じ空の下なのか)

 

 私は、均(きん)の手を握りしめた。

 あまりにも整いすぎたその景色が、かえって恐ろしかった。

 徐州で踏みにじられた数万の命、泥の中で冷たくなった叔父上の体温。

 それらすべてが、この襄陽の贅沢な静寂の前では、まるで無かったことのように扱われている気がした。

 

 水鏡先生、司馬徽(しばき)の案内で、私たちは劉表様の私邸の末席へと通された。

 豪華な香炉から立ち上る煙が、私の薄汚れた身体を優しく、しかし残酷に包み込む。

 

 「……諸葛玄の甥か。よくぞ、生きて辿り着いた」

 

 御簾の向こうから響く、劉表様の声。

 それは温和で、慈愛に満ちていた。

 叔父上の遺した書状は、この「楽土」において、私たちに屋根と食事、そして「居場所」を約束した。

 

 だが、私の心に灯ったのは、安堵ではなく、激しい焦燥だった。

 劉表様は、この荊州の平和を「守っている」のではない。

 ただ、外の世界の地獄から目を背け、巨大な壁を作って閉じこもっているだけなのだと、私の冷徹な部分が告げていた。

 

 その夜、私たちは小さな、しかし清潔な離れの一室を与えられた。

 均は、久しぶりの柔らかな床の上で、深い、泥のような眠りに落ちていた。

 

 私は一人、月光の差し込む縁側に出て、叔父上から譲り受けたあの「印綬」を取り出した。

 金の紐が、月の光を浴びて冷たく光る。

 

 (叔父上。……私は、辿り着きました)

 

 けれど、心の中に溢れてきたのは、堪えきれないほどの孤独だった。

 襄陽の美しさが、叔父上の死を「無駄」だと嘲笑っているように思えた。

 叔父上が死ななければならなかった世界と、この穏やかな襄陽。

 二つを繋ぐ唯一の「理」は、どこにあるのか。

 

 私は、懐から一冊の古びた竹簡を取り出した。

 それは、道中で拾い上げ、守り通した聖賢の教えだ。

 私はその最初の一行を、月明かりの下で指でなぞった。

 

 「……私は、ここで学ぶ」

 

 私の声が、夜風に混じって消えていく。

 

 「襄陽の学問ではない。……この平和がいかに脆弱で、外の地獄がいかに無惨か。……その両方を知る私にしか作れない『法』を、私はこの地で見つけ出す。……それが、私の復讐だ」

 

 私は竹簡を閉じ、遠くに見える隆中(りゅうちゅう)の山影を見つめた。

 

 かつて、泥の中を這っていた少年は、もういない。

 

 これから私は、牙を隠し、知恵を研ぎ、時を待つ。

 天下が再び私を呼ぶその日まで。

 この荊州の豊かな土の中で、深く、深く、根を張る龍になる。

 

 「……おやすみなさい、叔父上」

 

 私は初めて、叔父上の死以来、一度も流さなかった涙を一粒だけ零した。

 その涙は、頬を伝う間に冷え固まり、少年の最後の名残となって消えていった。

 

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