第十四話:楽土の門(一)

​第十四話:楽土の門(一)


​執筆:町田 由美


​ 空の色が変わった。

 徐州の空を覆っていた、あの血を焼くような朱色は消え、荊州の空はどこまでも高く、薄情なほどに澄み渡っている。

 

 「兄様……お腹、すいたね」

 

 均(きん)が、私の衣を弱々しく引いた。

 あの廃廟での奇跡的な快復から数日。均の足取りはまだ覚束ないが、死の淵からは確かに戻ってきた。

 私たちは今、荊州の北の入り口、宛(えん)へと続く街道の検問所に立っていた。

 

 目の前には、整然と積み上げられた石造りの門。

 そこには、泥にまみれた私たちを阻むように、染み一つない官服を纏った役人たちが、机を並べて座っている。

 彼らが動かす筆の音、木簡が擦れ合う乾いた音。

 それは、徐州で聞いた悲鳴や怒号よりも、ずっと冷たく、私たちの存在を否定していた。

 

 「次。……身分を証明するものはあるか」

 

 役人が、顔も上げずに問いかけた。

 私の番だ。

 周囲には、同じように荊州へ逃れてきた難民たちが、疲れ果てた表情で列をなしている。

 だが、彼らの多くは「身分なき者」として、門の脇へと追いやられていた。

 

 「琅邪(ろうや)の諸葛家、亮。……そして弟の均です。……叔父、諸葛玄が劉表様より賜った書状を持っています」

 

 私は、胸元からあの汚れた封書を取り出し、差し出した。

 役人は初めて顔を上げ、私の顔と、泥だらけの封書を交互に見た。

 

 「……諸葛玄。……ああ、あの豫章(よしょう)太守の。……だが、彼は死んだと聞いているぞ」

 

 役人の指先が、封書の端を弄ぶ。

 

 「はい。……道中で、病により没しました。……これは叔父の遺言です」

 

 「遺言、か。……だが、書状の主がいなければ、我々にはこれが本物かどうかを確かめる術がない。……今の荊州には、偽の書状を持って入り込もうとする輩が溢れているのだ」

 

 役人は、冷淡に封書を机の上に置いた。

 

 (法が、守るためのものではなく、拒むための道具になっている……)

 

 私は、自分の拳を強く握りしめた。

 叔父上が命を懸けて守り抜いたこの紙切れ一枚が、この男のたった一言で「無価値なゴミ」にされようとしている。

 

 「……確認してください。……その封印の裏にある私印は、劉表様が自ら叔父に授けたものです。……叔父の死が、この書状の価値を損なう理由にはなりません」

 

 私の声は、低く、威厳を帯びて響いた。

 役人が、僅かに眉を動かす。

 十三歳の少年が放つ、場違いなほどの圧力。

 

 「生意気な小僧だ。……だがな、ここにはここの『決まり』がある。……身寄りのない子供を受け入れる枠は、今の荊州にはもう残っていないのだよ」

 

 役人が封書を突き返そうとしたその時。

 私の後ろから、一人の男が歩み寄ってきた。

 

 「待ちなさい。……その書状、私に見せてくれないか」

 

 落ち着いた、深い井戸の底から響くような声。

 振り返ると、そこには豪華な服こそ着ていないが、その立ち居振る舞いだけで「知の巨人」であることを予感させる、一人の男が立っていた。

 

 男は、私の泥だらけの手から封書を恭しく受け取ると、その封印をじっと見つめた。

 

 「……間違いない。これは、劉景升(劉表)の筆跡だ。……それに、この少年。……泥にまみれてはいるが、その眼光は、単なる難民のものではない」

 

 男は役人に向き直り、静かに言った。

 

 「この者たちは、私の客だ。……通してやりなさい。……責任は、この司馬徽(しばき)が持つ」

 

 司馬徽。

 水鏡先生と呼ばれる、当代随一の賢者。

 

 私は、その名を聞いた瞬間、全身の力が抜けるような衝撃を覚えた。

 

 「……あ、ありがとうございます」

 

 「礼には及ばんよ、諸葛の少年。……君の叔父上とは、かつて洛陽で論を交わした仲だ。……だが、私が君を助けたのは、叔父上のためではない」

 

 水鏡先生は、私の瞳を覗き込むようにして、小さく微笑んだ。

 

 「君が、門の前で放った『法は拒むための道具ではない』という怒り。……それが、あまりにも美しかったからだ」

 

 門が開いた。

 ギィィ……と重い音を立てて開いたその先には、私たちが夢にまで見た、荊州の緑豊かな大地が広がっていた。

 

 だが、私の心は晴れなかった。

 一人の賢者の「温情」がなければ、私たちは再び路頭に迷っていたはずだ。

 個人の情けによって左右される秩序など、私が求める「真の法」ではない。

 

 私は、水鏡先生の背中を見つめながら、均の手を引いた。

 

 荊州。

 ここが、私の新たな戦場となる。

 

 少年は、初めて「知」という力が、剣よりも鋭く、時に門さえも開く鍵になることを知った。

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