第九話:荊州の遠雷(一)
第九話:荊州の遠雷(一)
執筆:町田 由美
どれほどの時を、私はただ歩き続けてきたのだろうか。
陽が昇れば影を追い、陽が沈めば星を数える。
足の裏の皮はとうに破れ、乾いた血が草鞋と癒着して、一歩踏み出すたびに肉を剥がされるような痛みが全身を駆け抜ける。
だが、その痛みこそが、私がまだ生きていることを、そして背負っている均(きん)がまだ温もりを失っていないことを教えてくれる唯一の証だった。
「兄様……みず……」
均の声は、もはや羽虫の羽音よりもか細い。
私は立ち止まり、乾ききった喉を鳴らした。
腰に下げた革袋を逆さにしても、滴り落ちる水は一滴もなかった。
視界の先には、どこまでも続く黄土の地平線。
かつて書物で読んだ「豊かなる大陸」の面影はどこにもない。
戦火が通り過ぎ、民が逃げ出し、耕す者を失った大地は、まるで皮を剥がされた死骸のように無惨にひび割れていた。
この乾燥した大地に、私たちの涙を吸い取る慈悲など残ってはいない。
私は、叔父上の遺したあの封書を、胸元で確かめた。
泥と汗を吸って固くなったその紙が、私の肋骨を鋭く突く。
(あと、どれだけだ……)
叔父上が言っていた劉表様の治める荊州。
そこには「法」があり、食料があり、安らかな眠りがあるという。
だが、その「楽土」へ至る道は、死によって舗装されていた。
不意に、遠くで低い音が鳴り響いた。
ゴロゴロと、大地の底から這い上がってくるような、不吉な響き。
雷だ。
雨が降る。
普通であれば、それは恵みの予感であったはずだ。
だが、今の私たちにとって、雨は体温を奪い、傷口を腐らせる「冷たい刃」に他ならなかった。
均の熱は依然として高く、このまま雨に打たれれば、今度こそこの小さな命の灯火は吹き消されてしまうだろう。
私は、周囲を見渡した。
遮るもののない荒野に、唯一、朽ちかけた廟(びょう)のような建物が歪な影を落としていた。
私は、均を抱き抱えるようにして、その影へと急いだ。
一歩、また一歩。
膝が笑い、視界が白く明滅する。
「諸葛亮……倒れるな……。お前が倒れれば、叔父上の死は何だったのだ」
自分自身に呪いをかけるように、私は歯を食いしばった。
廟の中に辿り着いた瞬間、外では大粒の雨が地面を叩き始めた。
激しい雨音。
それは、この世のすべての罪を洗い流そうとしているのか、それとも、弱き者たちを泥の中へと押し込めようとしているのか。
埃の積もった冷たい石床に均を横たえ、私は荒い息を吐きながら壁に背を預けた。
暗い廟の奥。
かつては人々の祈りを受けたであろう神像が、首を失い、無惨な姿でこちらを見下ろしている。
「……神など、いない」
私の口から、乾いた笑いが漏れた。
もし神がいるのであれば、叔父上のような高潔な男を、なぜあのような泥の中で死なせたのか。
なぜ、この幼い弟にこれほどの苦しみを与えるのか。
私は、震える指先で、懐から一振りの小さな短刀を取り出した。
それは、護身用として叔父上から手渡されたものだ。
私はその刃を、自分の腕に軽く当てた。
(誰も助けてはくれない。ならば、私自身が……神を、法を、作り出すまでだ)
外の雨音はますます激しさを増し、まるで世界の終わりを告げる鼓動のように響いていた。
その闇の奥から、不意に、微かな、けれど確かな「人の気配」がした。
「……ほう、この嵐の中で、龍の稚魚が呻いておるわい」
老いた、酒の匂いの混じった声。
私は反射的に短刀を握り直し、闇の奥へと視線を鋭く走らせた。
そこには、一人の老人が、泥だらけの足を投げ出し、楽しげにこちらを眺めていた。
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