第十話:廃廟の問答(一)
第十話:廃廟の問答(一)
執筆:町田 由美
雨の音だけが、世界のすべてを塗りつぶしていた。
私は短刀を握りしめたまま、闇の奥に座るその影から目を離さなかった。
「誰だ」
私の声は、低く、鋭く、自分でも驚くほど冷徹だった。
老人は、濁った瞳に松明の残光のような奇妙な輝きを湛え、私の構える刃を、まるで幼子が振り回す枝切れでも見るように眺めている。
「誰、か、とな。……それは、天に問うべきことか、それともお前のその薄汚れた短刀に問うべきことか」
老人は、泥のついた瓢箪(ひょうたん)を口に運び、安酒の匂いを撒き散らしながら笑った。
「龍の稚魚と言ったな。……取り消せ。私はただの、行き倒れの難民だ」
「難民、か。難民の目は、そんな風に他人の魂の深さを量ったりはせんよ、若造」
老人は重い腰を上げ、摺り足で私に近づいてきた。
私は本能的に一歩退こうとしたが、背後の壁がそれを許さない。
私の足元では、均(きん)が苦しげな吐息を漏らし、熱にうなされながら私の衣の裾を掴んでいた。
「その弟、放っておけば夜明けを待たずに死ぬぞ」
老人の言葉が、私の心臓を直撃した。
「……貴様に何がわかる」
「わかるさ。死の匂いは、酒の匂いよりも鼻につく。……お前は、その弟を救うために、何を差し出す? 叔父の印綬か? それとも、懐に隠したその汚れた封書か?」
なぜ、この老人は知っている。
私が誰にも見せず、肌身離さず持っていたはずのものを。
私は、全身の血が凍りつくのを感じた。
この老人は、敵の軍勢よりも、道端の略奪者よりも、はるかに恐ろしい「何か」だ。
「……均を救えるなら、何でも出す。だが、貴様にそんな力があるとは思えない」
「力、とな。……お前が信じる力とは何だ? 兵の数か? 城の高さか? それとも、紙に書かれた古臭い『法』とやらかな」
老人は私の目の前で立ち止まり、その節くれだった指で、私の眉間を指した。
「お前は、あの泥の中で叔父を捨てた。……いや、叔父が守ろうとした『理』を捨てた。……ならば、お前の中に今残っているのは、ただの空虚だ。その空虚を埋めるために、お前は天下を欲している。……違うか?」
私は、言葉を失った。
十三歳の私の、誰にも触れさせたくなかった魂の最深部を、この老人は無造作に暴いてみせた。
外の雨は、さらに激しさを増し、廃廟の屋根を突き破らんばかりに叩きつけている。
私は短刀を握る手を緩めなかった。
けれど、視界が滲んでいた。
怒りでも、悲しみでもない。
自分のすべてを見透かされたことへの、耐え難いほどの戦慄。
「……天下など、どうでもいい。私は、均を助けたいだけだ」
「嘘をつくな。……弟を助けたいという願いの裏側に、お前は『二度と蹂躙されぬ秩序』を求めている。……お前は、人を救いたいのではない。人を救わねばならぬほど無力な、今の自分を殺したいのだ」
老人の声が、廟の中に反響する。
それはもはや人の声ではなく、荒野を吹き抜ける風の音そのもののようだった。
私は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
均の熱い手が、私の指を握りしめている。
「……救えるのか。……均を、救えるのか」
私は、絞り出すような声で問うた。
老人は、初めて笑うのをやめ、真剣な眼差しで私を見据えた。
「救えるのは、お前自身だ。……若造。……これより、私が言う三つの問いに答えろ。……その答えが、天の理に適っていれば、お前の弟の命、私が繋ぎ止めてやろう」
嵐の夜、首のない神像の前で。
のちに諸葛亮と呼ばれる少年は、自分の全存在を賭けた、初めての「試練」に直面していた。
「……言え。……答えてやる」
私は短刀を石床に置いた。
その金属音が、運命の歯車が回り始めた合図のように、暗闇の中で長く、長く尾を引いた。
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