第七話:対岸の拒絶(一)
第七話:対岸の拒絶(一)
執筆:町田 由美
小舟が対岸の砂利を噛んだ。
船頭は約束通り、私たちを揚州の土へと吐き出したが、その背中は一刻も早くこの病の気配から逃げ出そうと急いでいた。
「叔父上、大丈夫ですか。……叔父上!」
私は均(きん)を抱えながら、膝をつく叔父上の肩を支えた。
叔父上の呼吸は、もはや壊れた鞴(ふいご)のように、喉の奥でヒューヒューと悲鳴を上げている。
見上げた夜空には、琅邪(ろうや)で見たのと同じ星が瞬いていた。
あんなに遠く、あんなに美しいものが、今の私たちの苦しみとは無関係に輝いていることが、ただ恨めしかった。
「亮……先へ、行け……。町の門は、まだ、開いているはずだ……」
叔父上の指先が、闇の向こうにある微かな街の明かりを指した。
私たちは泥だらけの身体を引きずり、その光を目指して歩き出した。
一歩進むごとに、私の背中の均は重くなり、隣を歩く叔父上の足取りは、まるで幽霊のそれのように頼りなくなっていく。
ようやく辿り着いた町の門。
そこには、私たちのような難民を阻むために、巨大な木の柵と、松明を掲げた番兵たちが立ちはだかっていた。
「入れろ! 叔父上が、病なのだ! 弟も熱がある。頼む、一晩でいい、雨風を凌がせてくれ!」
私は柵にしがみつき、叫んだ。
だが、番兵の瞳に宿っていたのは、恐怖と嫌悪だった。
「帰れ、小僧。この町はもう満杯だ。お前らのような余所者が疫病を持ち込めば、この町の民が全滅する。それが上からの命令だ。……これ以上近づけば、射るぞ」
弓の弦が軋む音が、夜の静寂に響いた。
「命令……?」
私は、その言葉を反芻した。
この男たちの言う「命令」は、かつて叔父上が語った、民を救うための「法」と同じ言葉なのだろうか。
人々を救うはずの決まりが、今、目の前で死にゆく三人の命を、ゴミのように捨て去るための盾に使われている。
「……亮。もういい。……もう、いいのだ……」
叔父上が、私の衣の裾を弱々しく引いた。
叔父上は、柵から少し離れた枯れ草の上に、力なく腰を下ろした。
その顔は、松明の光に照らされ、死人のように青白く、けれど、どこか澄み渡ったような静かさを湛えていた。
叔父上は、震える手で懐を探り、一通の、ボロボロに汚れた封書を取り出した。
「これを、持っていけ。……荊州の劉表様へ、宛てたものだ。……私がいなくなっても、この書状さえあれば、お前たちは……」
「何を言っているのですか、叔父上! 一緒に行くと言ったではありませんか! 私を一人にしないでください!」
私は叔父上の手を握りしめた。
その手は、先ほどまでの熱が嘘のように、急速に冷え始めていた。
「亮。……よく聞け。……この世には、二つの法がある。……一つは、人が生きるために作る、偽りの法。……もう一つは、天が定め、抗うことのできない、真実の法だ」
叔父上の声は、次第に風に溶けるほど小さくなっていく。
「私は、人の法に敗れた。……だが、お前は……お前だけは、天の法を読み解き、この乱世を、……治めろ。……亮。お前は、龍になれ……」
叔父上の首が、カクンと垂れた。
握りしめていた私の手から、力が抜けていく。
「叔父上? 叔父上!」
私は叫んだが、返事はなかった。
均が、夢現の中で「おじうえ……」と小さく呟いた。
街の門の向こう側では、誰かの楽しげな笑い声と、煮炊きの匂いが漂ってきた。
門のこちら側には、死んだ叔父上と、死にかけている弟、そして、一人取り残された十三歳の私。
私は、泣かなかった。
涙は、泥の中でとっくに枯れ果てていた。
私は叔父上の懐から、血と泥に汚れた封書を受け取ると、それを自らの胸に深く、深く押し込んだ。
(法が、死んだのではない)
私は、冷たくなった叔父上の瞼を、そっと指で閉じた。
(この世界そのものが、間違っているのだ。ならば、私がすべてを書き換えるしかない)
私は立ち上がり、均を背負い直した。
門を閉ざした町には目もくれず、漆黒の闇が広がる南の荒野へと、私は最初の一歩を踏み出した。
背後で、番兵が「おい、どこへ行く」と声をかけたが、私は振り返らなかった。
私の瞳には、もはや少年の迷いはなく、冷徹な星の光が宿り始めていた。
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