​第六話:濁流の対価(一)

​第六話:濁流の対価(一)


​執筆:町田 由美


​ 川辺に停まった一艘の小舟は、まるで死神が差し出した鎌のように、鋭く、冷たく、泥の上に横たわっていた。

 

 「一人、百銭だ」

 

 船頭の男は、私たちの身なりを汚物でも見るような目で見据え、言い放った。

 その声には、同じ土地に生まれ、同じ災禍から逃れてきた者への慈しみなど、欠片もなかった。

 男の手にある櫂(かい)は、人を向こう岸へ運ぶための道具ではなく、持たざる者を叩き出すための武器に見えた。

 

 百銭。

 今の私たちには、それは国を一つ買うのと同じほどに遠い数字だった。

 

 叔父上は、懐から小さな袋を取り出した。

 かつては重みのあったその袋も、今では数枚の銅銭が虚しく音を立てるだけだ。

 「これだけしかない。……だが、見てくれ、この子は熱がある。一刻も早く、対岸の医者に見せなければならないのだ」

 

 叔父上の声は、懇願というよりは、もはや魂の最期を振り絞るような喘ぎだった。

 均(きん)の呼吸はますます浅くなり、私の腕の中で、その小さな命が指の間からこぼれ落ちていくような感覚がした。

 

 「ガキの熱など知ったことか。俺だって、明日の飯の種がねえんだ。金のない奴は、ここで野垂れ死ぬ。それが今の『決まり』だ。……なあ、諸葛の旦那」

 

 船頭が鼻で笑った。

 「決まり」という言葉が、私の耳を刺した。

 この男の言う「決まり」とは、強者が弱者を踏みにじり、持てる者が持たざる者を切り捨てる、野蛮な自然の掟のことだ。

 

 (これが……叔父上が守ろうとした『理』の成れの果てか)

 

 私は、叔父上の横顔を見た。

 叔父上の瞳は、今、決定的な絶望に塗りつぶされようとしていた。

 叔父上は、震える手で、自らの腰に差していたあの美しい剣を解いた。

 鞘に施された玉の装飾が、夕闇の中で場違いなほど優雅に輝く。

 

 「これを……持っていけ。琅邪の諸葛家が代々伝えてきた家宝だ。金に換えれば、百銭どころか、千銭にもなろう」

 

 叔父上の手が、剣を手放す瞬間に激しく震えた。

 それは、自らの家系、誇り、そして「士(し)」としての最後の拠り所を、泥に投げ捨てる行為だった。

 

 船頭は、奪い取るようにして剣を掴むと、その重さを確かめ、卑屈な笑みを浮かべた。

 「……へっ、最初からそうすりゃいいんだ。乗りな、旦那」

 

 私たちは、泥を這うようにして小舟に乗り込んだ。

 舟が水面を滑り出した瞬間、私の視界が不自然に揺れた。

 いや、揺れているのは舟ではない。

 私の目の前に座る、叔父上の背中だった。

 

 叔父上は、均を抱いたまま、激しく咳き込んだ。

 その口元を押さえた指の間から、一筋の、どす黒い赤が流れ落ちる。

 

 「叔父上……!」

 

 私は叫ぼうとした。だが、叔父上がそれを遮るように、私の手を強く、骨が軋むほど強く握りしめた。

 叔父上の手は、驚くほど熱い。

 均と同じ、あの死を招く熱が、すでに叔父上の身体をも侵食していたのだ。

 

 「……言うな、亮。均には……言うな」

 

 叔父上の目は、私を見ていなかった。

 川の向こう、立ち込める霧の先にある、まだ見ぬ土地を見つめていた。

 

 「私は……もう、ここまでだ。だが、お前たちは……お前たちは、この不浄な風を吸い込んではいけない。生きろ。生き抜いて、いつか……」

 

 叔父上の言葉は、冷たい長江の飛沫にかき消された。

 私は、叔父上の熱い手を握りしめ、ただ闇の中で、濁流の音を聞き続けた。

 

 (ああ……。神よ。理(ことわり)など、やはりどこにもないのですか)

 

 十三歳の私の心の中で、何かが音を立てて凍りついた。

 優しさだけでは、誰も救えない。

 正しさだけでは、川を渡ることさえできない。

 

 船頭が漕ぐ櫂の音が、まるで私たちの命を削り取る秒針のように、暗闇に響き渡っていた。


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